うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

元来の自分にない種類のポジティブさを捏造せずに考えてみる

少し前のブログに書いたのですが、わたしは静かに2月上旬からコロナの影響を受けはじめ、当時はそれも3月になれば終わるものと思っていたのですが、むしろ逆の展開。自分の運が悪かったくらいに思えるほうがまだましだったと後になって知る、こんな影響範囲の大きな出来事は経験したことがないけれど、世界がつながるというのはこういうことなんですね。そんなことを思う毎日です。


わたしの日常は仕事の変化でいろいろありつつ、3月25日を過ぎた頃には新生活に慣れ始めていたのですが、慣れを感じて一週間もたたないうちに新たに対応すべきことがやってきて、まだ波乗りのような日が続いています。
ヨガの活動も変更を強いられているけれど、心身のチューニングの場の必要性について自分なりに考えています。

 


わたしはこれまでに何度も判断疲れをしてきました。判断疲れというワードを自分の中から堀り出せるようになったのは最近のことで、いつも理路整然と自分の意識の整理ができているわけではありません。
変化への対応のためによっこらせと出すエネルギーは基本的にポジティブで前向きさをアピールする行為と相性がよいせいか、元来の自分にない種類の心の色を出そうとしてしまう、そういう後悔が起こりがちです。かつてのわたしの失敗パターンのなかに、一定数これがあるように思います。

感覚としては、着た服や小物の組み合わせがどこかおかしいのだけど、どうすればいいかわからない。それが解明できない朝の玄関パニックの大きい版。そしてそこでエイヤッとよくわからない主張の乗った組み合わせで出かけて「こんなつもりではなかった」という気持ちもいつの間にか忘れて一日を終え、漠然としたモヤモヤを打ち消すようにヨガをして寝る。
ヨガの練習にはリフレッシュやリセットという短期的なメリットがあるけれど、長期的な人格形成を考えてなるべくこういうこと(エイヤッという打ち消し)で鈍くなっていかないようにしたい。

そのために、いま書いているこの日記のような、自分の考えの言語化作業が必要であるとつくづく思います。

 

 

世間で問題視されている買い込みも、この打ち消しの反映行為のひとつに見えます。わたしにとっての、エイヤッとやってしまうときのヨガに近いもの。

買うのが洗剤やごみ袋でなくトイレットペーパーや米であるのは歴史的騒動の記憶や刷り込みによるものだし、ヨーガの視点で言えば smrti(メモリー)とmaya(投影・幻想)の作用。それを特殊として扱うほうがちょっと激性をはらんでいる気がして、その都度頭の中で立ち止まるようにしています。なんか心配になっちゃってもう一つ買っちゃったのという揺れまで許されなくなるほうがおそろしくて。そんなに急に悟れないのはわたしだけじゃない。

 


ここ最近のような、主張を乗せた発言がネット上にあふれている状況には既視感があります。「これがほんとうの現実」(←日本語がおかしい)であると伝える目耳を引くものも、よくよく読んでみると「いかがなものか」どまりのものもあって、余剰エネルギーを義憤に乗せて走らせただけのものに見えます。いま断定できることって、ひとつもないんですよね…。
震災の時はわたしもそういうことをしていました。わたしの身近ではこうです! なんてことを個人ジャーナルのように発信していました。自分の気持ちの観察の仕方がわからなかったので、そういうやり方をしていました。


今はそれをしなくていいように、民間レベルのパニック対応が日本よりも少し早く始まった国に住んでいる友人とメールでロングスローのキャッチボールをしながら「こういう気持ちってどういう気持ちだろう」と、心の中の反応を観察しています。
メッセンジャーアプリではできない重量感で心の整理ができるので、こういうときはメールが便利。前提としてロングスローイングができる文章化の技術・筋力も必要です。強い警告やあおりではなく、複雑な思いも言語化して伝えてくれる友人の存在がありがたい。

 


修行とか学びとか気づきなどの便利なワードも、それ以外の言葉を探すことで自分に向き合えます。いまなにを失ったと感じ、いまなにを恐れているかを確認しておかないと、漠然と不安を口にした後に最後だけ前向き風情のフレーズでクロージングして、なんかよくわからないわたしになる。愚痴を言ったけれど相手に負担をかけていないことにしようとして、エクスキューズをしてさらに自己嫌悪を重ねる。これはこれでメンタルにくるので、心の整理のやりかたを模索しています。

 


ありがたさとか尊さとか感謝の気持ちって、わたしの場合はすぐには立ち上がってこないもの。存在しないわけではなくて、捉えるまでにとても時間がかかります。なので、それをあわてて口にしなくても自分を排除したりしないと思える人がいると感じられることが大切。そこで時間稼ぎをしながら、なんとか持ちこたえられる。

ヨーロッパに住んでいる友人にこんなトーンで話すと、のんきだと思われることが確実です。そういう、わたしが勝手に推測してそっとシャッターを下ろすような分断が、すでに自分の中ではじまっているのを感じています。

それでもいまは、あわてず葛藤しようと思っています。ここまで読み込むほど、いまをサバイブしているあなたと一緒にです。