うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

自分の視点を話せると、それだけでクリエイティブな人に見える

このブログをきっかけにいろいろな人と出会ってきたなかで、何度かこんなことを言われたことがあります。

 

 

 こんなふうに書くヨガの先生って、いるんだ。と思って

 

 

これはわたしにとって、興味深いことです。その人の “視点” の存在を示してくれるリアクションだから。
同じくヨガに関心がある人でも、身体観察を楽しいと思う人、ワークアウトとしてヨガを楽しむ人、ヨガの知識や哲学の面に興味を持つ人、練習よりもヨガの雰囲気や自然派の考えが好きな人、ヨガというよりインドやスピリチュアルなものごとに関心を持つ人、ヨガを怪しいと思っている人、ヨガは現実逃避をしたい人間の向かう先だと思っている人、逆にヨギーをリア充くさくて疎ましいと思っている人、かつてヨガにどっぷりハマって自己評価がこじれて今となってはマスク警察ならぬ「ヨガ警察」のようになっている人、etc……。とにかくいろんな人がいるのを知っているから。

 

それがわかっているから、わたしがその人の現在の ”個” を感じるポイントは、その人の視点の存在を表明する気があるかないか。それ以外は、なんだって後付けできるものと思っています。

 


「こんなふうに書くヨガの先生って、いるんだ」という言葉が出てくる時点で、その人が問いを立てる感覚を持っていて、そしてその疑問は実はヨガに対してだけではなくて、もっと広い範囲に対すること。

なのでそれを表明されると、なんだか信頼できそうな人だな、という印象を抱きます。

 

 

でね。

今日のタイトルは「自分の視点話せる」で、「自分の視点話せる」ではありません。
自分の視点で話すのは簡単です。ただの反応でも、自分の視点です。そしていまは、それすらも隠そうとする人がいます。
自分の経験・反応のはずなのに「〜なんですよね?」「〜なんですか?」「〜なんでしょ?」と、疑問形にしないと不安な人がいます。面接でこれをやったら確実にNGフラグが立つけれど、日常ではやっている人がいる。

 

 

その語尾を受け取った側は、その人の脳みそを肩代わりすることができずに困惑します。不親切に見えるであろう返答を、わかっていながらやることになります。まるで「泣いた赤鬼」の青鬼の役を有無を言わさず割り当てられたような気持ちになります。大人同士でのやり取りで、このディスコミニュケーションが孤立・分断のきっかけになっているよな・・・、と思う場面をたまに見かけます。

 


なのでわたしは “個” の視点が感じられると、その時点でその人をクリエイティブな人と感じます。先の「泣いた赤鬼」の喩えを理解し頷く人は、主観と客観の両方の視点を同時に持つ感覚があります。

そして自分を弱く見せたいという誘惑にかられた時にもその感覚を忘れないようにする人には、自ら光を出すことのできる人格があります。わたしはそういうところに信頼感を抱きます。

 


長々と自分の歴史を語ることなく、どこかで聞いたような意見の代弁でもなく、そのときの視点をパッと表明する人っていますよね。この「パッ」てのが、わたしは光だと思うんです。
それをしてくれると、たとえ同じ意見ではなくても、むしろ同じじゃないからこそ、話を聞きたくなる。そういうことって、ありませんか?

次回はわたしが実際に見た人・場面について書きます。