うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヨガで性格が悪くなるというのは、第三者から見たらそうだろうと思いあたることがある

ヨガを続けている人と話をすると、ときどき「ヨガをしていると薄気味悪がられる」という話が出ます。「薄気味悪がられる」の部分はそれぞれが自分なりに言語化されていて、目立たないように振舞っていながらちゃっかり観察するから不気味なんじゃないかとか、お話を聞くたびに発見があります。

 

ヨガをしていることで「身近な人からいい顔をされない」という場合は、身近な人に寂しい思いをさせることによるものじゃないかと、わたしはそのように推察することが多いです。
話をわかりやすくするためにあえてAさんBさんで書きますが、たとえばAさんがヨガをはじめてから、Bさんは自分に向けられるアテンションが減ったと感じる。

もともとAさんがちょっと重かったというならさておき、そうではなかった場合、Bさんが「Aさんの性格が悪くなった」ということにしたい、そういう解釈もあるだろうなと思います。子どもみたいだと思うかもしれないけど、あんまり子どもと大人ってそこは変わらないような気がしています。
そしてこれに「ヨガをはじめてから」とか「あそこへ行くようになってから」というフレーズをくっつけるとなると、以下のことが思い当たります。

 

上達する時期の達成感⇒万能感⇒全能感由来のもの

運動でもなんでも、プラクティカルなものは練習すれば上達します。Aさんはいままでそれをしていなかっただけの話なのですが、この上達の時期にAさんが他の場面で成功したりラッキーなことが重なると、Aさんのなかで全能感・万能感のほうへ感覚を「盛ってしまう」ような、そういう状況になる場合があります。
ヨガはヨガの範囲で「練習したら、できるようになった」ということを一度味わって、この感覚をじわじわ他の方面へ広げていけるとよいのですが、なぜか、かねてよりの不満を正当化するエネルギーに代用してしまったりする。

アーサナの上達と利権はなんら関係がないのに、そんなふうに心象を混ぜたり広げたりしてしまいます。

 

 

居場所を見つけたことによるもの

「行きたいところがある」という態度は、そこへ一緒に行くのでないならあまり積極的に前面に出さないほうがよいもの。強く前面に出せば身近なBさんに寂しい思いをさせてしまいます。というか、そうなるともはや攻撃。

Aさんがヨガの場を「居場所」と感じる理由はこのあとの事項とリンクするかもしれません。

 

 

仲間を得たかのように思うことによるもの

本来練習は個人的なものなので、仲間を得たという感覚はときにノイズになります。仲間を得たという感覚がBさんに向けた攻撃材料になってしまう場合は思いっきり毒になります。

いわゆる「あてこすり」というやつですが、Aさん自身が自分の抱えている孤独に向き合うきっかけとして、これは避けられないプロセスかもしれません。

 

 

グルと出遭ったと思うことによるもの

因果の法則を日本語に訳す場合に「すべては必然」「起こるべくして起こった」というフレーズが使われることがあり、これがさまざまな解釈を生みます。

もともとの意味は「トマトは赤くなる性質を持っていた」くらいのものでも、グルのおかげで赤くなったと思いたいAさん、俺が赤くしてやったというグル、あるいは両方。そんな接触事故が起こっていたら……そりゃBさんにしてみればびっくりです。

 

 

社会や世界にとって、よいことをしていると思うことによるもの

人が二人以上集まると、組織・社会になります。AさんとBさんの関係において、AさんにとってAさんがよいと思うものがBさんにとって別になんでもない場合、Aさんが「練習をした=いいことをした」という感覚をBさんに理解してもらうのは無理な話。

「練習をした=余計なエネルギーを使い果たした=愚痴が減った」であれば、Bさんに生活態度の変化を通じて理解してもらえるかもしれません。もともとAさんがトーク上手で、Aさんの愚痴がBさんにとって期待のおもしろコンテンツであった場合、Bさんはにとっては「つまらなくなった」ということになります。芸人さんが「守りに入った」と言われるときのように。
Aさん視点とBさん視点を同じにできると思うこと自体が実社会では幻想なのですが、ヨガでは幻想ではないとするようなところがあります。ここは本気で説明するとめちゃくちゃ長くなるのですが、いずれにせよ説明しようとするとかなり宗教っぽく聞こえると思います。

 

人が話すときに主語を広げるのは混乱時によくあることですが、わたしは過去の自分の文章を見て「やばいな…」と思うことがあったりするので、これはやばいの。ほんとうに。ヘイトスピーチをする人と同じような脳内変換をしていることがある。
Bさん、ごめんなさい! わたしが代表して謝る!

 

 

わたしは日本人同士のコミュニケーションでは、便宜上「こうしたくて、これをしています」「こうなりたくて、これをしています」というふうに話したほうが相手に余計な不安を与えない(妄想をさせずにすむ)、そういうやさしさというか配慮があるほうが今の感覚では常識的な場面が多いだろうと考えます。


そして、そこまで言語化できないにしても、「どうしたいかわからなくて、これをしている」と話せるほうがいい。身近な人だからこそ「自分がどうしたいかわからなくて、とりあえずいまはこれをしていると気持ちがラクになれる」と言えればいいんですけどね…。

 

話を冒頭の例に戻すと、Bさんにとって重い存在であったAさんがヨガに夢中になって自分から離れていったということであれば「Aさんは性格がよくなった」ということになる。

いずれにしても、他人から見てヨガをはじめてから変わったと言われることがあるなら、その関係性において何らかの比重の変化が起こっているということ。それだけ認識しておければいいんじゃないかな。身体の変化や知識量の増加で得た自信を身近な人を断罪する武器として使えば、そりゃ嫌われる。

こうやって書くとシンプルな話なのだけど、ヨガにはそんなふうに一筋縄ではいかせてくれない魅力があるんですよね。おもしろいね。

 

 

<わりと似た話>

 

<別の切り口から説明した話>