人の集まりについて、先日の続きです。
わたしは他人と個室で話をするとき、それは二人でも三人でももう少し大勢でも、人が集まった集合体をひとつのボディとしてとらえてみます。そしてそこにサンカルパのない状態というのは、とてもあぶなっかしい。
上記の面で安全性が保たれないなら、公園でも道端でも喫茶店でもいいのでオープンな場のほうが話しやすいです。
心情の吐露は、土壌のある場所で
いわゆるアイスブレイクや交歓であるはずの会話の延長に愚痴や苦労話を薄くでも差し込んでしまうとき、一瞬スッキリしたあとに自己嫌悪で自分の毒が自分に回ってくる。わたしはこのフラッシュバックがすごく嫌で、他人に不都合なことを言われたときよりも嫌です。
なので、調和のとれた対話というのはどうやったら成り立たせることができるのかについて、よく考えます。「これって、どういうことだろう」ということを多角的に探るのに他人の頭を借りることと「とにかくわたしの味方をして」という事態を成立させるための会話は別物。この違いに対して意識的になることが、長期的な視点で見たら、やさしいということではないか。そんなふうに考えます。
たとえば会社の会議でも
もしあなたが組織の中で意思決定権を持つ存在であったとして、戦略会議の前提で呼ばれていたはずが事実上承認会議だったというときに、どうするか。
この事例はわたしの仕事の経験ですが、かつてこういう場面に出くわすたびに、この場はどうやって整理したらいいのだろうとずっと考えていました。「この会議は、どなたがどなたを呼んではじまった会議ですか?」と、なるべくやんわりと尋ねることから紐解いていく。意識がどこから発生したのかなんて突き止められないってはじめからわかっているけれど、どこに責任感を持った人が存在しているかを探っていく。いつのまにか味方の数を集めるという手段が目的化してしまった場に立ち向かう。
これは、会議体にサンカルパがないという事例。
こういうことって、日常に事例がたくさんあるだろうと思います。
この分類(サンカルパのある集合体・ない集合体)の識別のヒントをくれたのは瞑想・ヨガニードラのメソッドですが、そのメソッドを生み出したインド人たちは、まあよく一日中、くっちゃべっています。あれだけ日常的にしゃべっていたら集まりを設定する必要もないわなというくらい。たいしたことを話さないまま、延々コミュニケーションをとっている。
これはこれで、目的が交歓だってわかってやってるんだろうなと思うのだけど、どういう技術なのだろう…。身につけたい。