うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

新年の抱負の ”抱負” とサンカルパ

「願い事」「祈願」「抱負」。なにげなく使い分けている言葉ですが、ヨガニードラで唱えるサンカルパは「抱負」に近い要素がある。なんかいいことありますように♪ ではない、抱負。
仏教に寄せると誓願や大願と訳されることもあり、生涯をかけて成し遂げたいことや、自分で起こし続ける行動意志を伴うもの。 そこには自分の奥底の願いを認識する作業が入っている。「やるからには」「とりあえず」などの短期目標に紐づきがちなワードが不似合いなところまで削り込みの進んだもの。
もし昨年の新年の抱負と今年の新年の抱負が同じなら、それはもうあなたの思想・信念といえるかもしれません。

 

サンカルパをまとめるのは、めんどう?

ヨガニードラという瞑想の練習では、毎回サンカルパを胸の奥で口に出さずに唱えます。ヨガニードラのガイドをしているとき、わたしは「このプロセスをめんどうと感じる人もいるだろうな」と少し想像します。めんどうと感じる心のはたらきは日本人らしい感覚の問題なのでヨーガの視点から解決案を提示することはできないけれど、「サンカルパ=新年だけに唱えるわけではない抱負」といったら少しわかりやすくなるかもしれません。

 

意識を散らさず、まとめる

「サンカルパをまとめる」と書きましたが、これは「馬に乗馬した」みたいな日本語で言葉そのものに「まとめる」「決める」の要素が入っています。わたしが自分の経験からの言葉でいうならば、意識というのが細かい粒粒(つぶつぶ)なのだとイメージし、自分の中の意識の粒粒はふわっとぼんやり散っているときもあるけれど、なにかに向かってまとまることもある。ヨーガには意識の状態について細かい分類・言いかたがたくさんあるのですが、わたしはこのようにとらえています。

 

評価者の対象の範囲を広げる

わたしはFacebook上の友人をわざと国際的な状態にしているのですが、意外とこれは日本人に限ったことではないのねと思うくらい、多くの人がすでに知っている他者への好印象を意識しています。身近な常識のなかでポジティブに見えることを発信している。
身近な人や所属する場で褒められたり罰せられる機会を気にすればするほど、その力に対する構えが強くなっていく。 人間の評価ウェイトが上がっていく世界。 "神が人を評価する" という概念で生きる人が少なくなったのか、そもそも実は少なかったのか、神も人が創ったのだからと思っているのか。
他人の評価を神の評価に近い重みづけにしてしまう気持ちは、中二の頃の自分を思い出せばわかります。でもヨーガの考えでは神の評価。神とつながっている自分が自分に「いいね!」したいと思えるようなものに意識的にチューニングして、研鑽していくもの。サンカルパって、そういう性質のものです。

 


今日書いたことはひとことでいうと「神聖な誓い」についての話なのだけど、そもそも「神への信愛」よりも「世間への忠誠」で生きてきたわたしたちは後者に引っ張られていく。漠然とした「世間」という集団人格神に忖度してしまう。そんな背景もあって、わたしはサンカルパを唱える瞑想の練習を大切にしています。サンカルパを探し、文章として磨き上げていくのにも年月がかかると思っています。
講師としては説明しすぎないのも大切なことだけど、その手前で一瞬フリーズしている人もゼロではないであろうサンカルパ。漠然となにかを期待しながら漠然とがんばるよりも、具体的にがんばる。それは画像の中には納まりきらない、まぶしくてレンズも捉えることのできないリア充
サンカルパがあると、ライフがヴィヴィッドになるの。

 

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(この画像は昨年の10月に行った群馬県高崎市・榛名神社の鳥居です)


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