うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

自分で自分を責めないために、小さな工夫を積み重ねる集まりのこと

先日、わたしがここに書いた「苦労話マーケティングに手を出さないようにしている」という心情吐露のきっかけを作ってくれた人が、ブログを読んでメールをくださいました。苦労話をしたあとに襲ってくる自己嫌悪の感覚について共感されたみたい。

 


いただいたメールには、わたしがかねてより思っていたことがその人の意識の中から掘り出された言葉で書かれていました。こういうとき、わたしは鉢ごと植木をおすそ分けいただいたような気持ちになります。へぇ~この鉢で、この土で、こんなふうに生えて伸びたのねーと。

 

そこには「集まり」についてのことが書かれていました。
人が集まる際のくくりが雑すぎる場合に葛藤が起こると書かれていました。わかるなぁと思いながら読みました。わたしは属性のセグメントだけで集まる場はファシリテーターがプロでない限り、そもそも自分があぶなっかしいので困ります。

あぶなっかしいというのは「漠然と仲間を増やす」という目的の場にぼんやりとした気持ちで行くと、時間を潰すために強い言葉や強く見える存在・話術のある人に引っ張られてしまうから。自分の中でその場にいる状況を整理するために「今日のジャイアン」「今日のスネ夫」みたいな人をなんとなく自分の中で設定していたりして、それもまた失礼な話なのです。勝手にのび太ぶってんじゃないよ自分!

 

うまくまとまったかのような場でも、仲間意識で安心を得た後があぶない。口さみしいに似たレベルの物足りなさから、仮想敵を想定して共有する話の展開に・・・、なんてこともある。言う必要のなかった悪口で悪徳を積んだときの、あの自己嫌悪はさらにつらい。

わたしはこういう経験を長年掘り下げてきたので、「あの自己嫌悪」がなるべく発生しないようにという考えかたをするのですが、こういうのってバチッと文章にできないものです。それでも工夫をすれば、それを理解してくれている人の構成比の多い場は作れます。

わたしは自分で行動し考える個人が集まる場を作るのが好きなのですが、それを続けるにしたがって、少しずつ "オープンな人" をやめていくことになりました。
人と人がつながりやすいプラットフォームがSNS上で普及しきったと感じた3年前くらいから、わりと強めにこの方向へシフトしています。わたしのなかでシャーンティというのは、かなり丁寧に築いていくもの。ばっと広げて配っているから分け隔てなくシャーンティ! なんてことは幻想だという経験を解析し、チューニングを続けています。
ここ数年で、この考えを理解してくれる人の声がかなりクリアに届くようになっています。世の中捨てたもんじゃないねと思ってワクワクしています。漠然としていない人たちと、ともに年齢を重ねていきましょうぞ!という気持ちでいます。

 

(つづく)

この話はトピックを2つに分けて書いたので、明日つづきをアップします。