うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

日々を乗り越えるための燃料が怒りのエネルギーでなくなっていく過程

これについては適切な言葉が見つからないのですが、似たものを探すならスランプかな。バッティングのフォームを変えるときにどうしても超えていかなければいけない打席の数であったり、開発が進むとその段階で出てくる解決すべき問題のような、そういう存在。(バッティングのほうに寄せるとスランプです)

わたしは2年くらい前から、さまざまなことを乗り越えるための燃料が怒りのエネルギーでなくなっていく過程のなかにいると感じています。ニュースで扱われている社会問題や人権、世代差や性差をキーに語られるさまざまなことについて、感情が以前のように動かない。この状況をちょっとスランプっぽく感じています。自分の社会経験や損得で見なくなったというといかにもヨギーな感じに聞こえるかもしれないけれど、それをひとこと「シャーンティ」で片付ける気はまったくなくて、自分にはまだまだ研究すべき題材があるのにキーワードが浮き上がってこない。そんなジレンマがあります。


誰かに見せることを前提とした自己犠牲の感情がどこから生まれるのか、そこに探求の意識が向いているところまでは見えているのだけど、要点がぐわっと浮き上がってこない。ヨガ的というよりもむしろ儒教的なプロセスにいるのかもしれません。

 

さて。そんなわたしはこの大連休に旅をするのですが、先日入国ビザを九段下のインド大使館へ受け取りに行ったら、すぐ近くの日本武道館東京大学の入学式が行われていました。こんなに大勢の人が集まるのか!と驚きました。そのまえに申請に行った日には専修大学の入学式が行われていました。その日もたくさん人がいて、聖書を配っている人もいました。平日の昼間にいつも行かない場所へ行くと、自分の見ている範囲は狭いものだと感じます。

 

それにしてもすごい人の数だと思いながら人垣を縫って地下鉄に潜って帰ったら、東京大学の入学式の祝辞がニュースになっていました。気になったので、その文章を読みました。そしてそのなかにあった「私を突き動かしてきたのは、あくことなき好奇心と、社会の不公正に対する怒り」という上野千鶴子さんの言葉が印象に残り、それはいまのわたしのスランプのきっかけに近いものだと思いました。
怒りを演じるのにもエネルギーが要ります。そしてその源泉にはあくことなき好奇心があって、さらにその発生源は? ということを、わたしはずっと探っているように思うのです。

この問いをそのままにしておくと落ち着かないから、人間は愛や神とか概念・物語を生み出しているのだろうというところまでは、これまでに何度も考えてきました。でも、あまり考えすぎないところがわたしのチャーム・ポイント(これ、自分で言っていいやつだっけ。まあいっか)。さあさあここから、いつもの転調です。


それはそれとして、日常はあるのです。わたしが関わりたいのは、わたしが誰かと関わるために目を向けたいのは、「それはそれとして」のところ。「それはそれとして」は結論がないからインパクトもありません。そこにインパクトが必要かというと、日常には必要がなかったりする。

 

必要なのはインパクトよりも小さなパッション。
わたしがいつも、これはどんなものだろう…と観察する対象に、熱情と情熱の微妙な差を示す「タイジャサ」というサンスクリット語があります。わたしはこの概念を5年前にサーンキヤ・カーリカーという書物を自分で辞書を引きながら読んで知りました。それはアハンカーラのラジャス質であると、サーンキヤ・カーリカーに書かれていました。(参考)活動する自我。

意識について簡単に善悪では語らせない、分解プロセスのしつこいこの教えがわたしは大好きで、心の支えにしています。

 

わたしが大切にしていることはとてもマイナーでインパクトも出しようがないのだけど、「それはそれとして」の灯火は、実はこっそり芯を出している小さなロウソクをもった人と共有していきたい、そういうもの。誰とでもシェアできるものだろうし、もちろんシェアしたいけれど、そのロウソクの芯の先っぽをちょろんと出して見せてくれないと、わたしも火を配りに行くことができない。
怒りではないエネルギーもあるはずだと信じているけれど、なかなかその示しかたが見つからない。わたしは、むずかしいことをやっているのかもしれない。

 

先日このブログに「記憶のやさしい使いかた」というのを書きました。そうしたら、それを書くきっかけになる会話をした張本人から、まるでその話をはじめて聞いたような勢いで「うちこちゃんが今日書いてたこと、すごくわかるーー」というメッセージが送られてきました。この人は疲れてボケちゃったのかしらと思いつつ、よくよく自分の書いたものを読んでみると、わたしはその人にもらった助言をフックに全く別のことをいくつも引っぱり出していました。
わたしがしたいことはまさにこのような意識の交歓であって、よくヨガの人々が使う「シェア」とは少しはたらきを別にするもののように思います。わかってもらえますかな、この感じ。

そんなこんなでしばらく日本を離れますが、また戻ってきたらぜひとも交歓してください。