うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヨーガ ポール・マッソン・ウルセル 著 / 渡辺重朗 翻訳


著者のポール・マッソン・ウルセルという人物はフランスの東洋学者・哲学者だそうで、この本はすばらしく客観的な解説書です。客観俯瞰視点に対して「なんて頭が涼しいことか!」と感動したのは、Herbert V. Gunther(H・V・ギュンター)博士(ドイツ人)以来。
今年の夏に図書館で読んで感動し、新しいバージョンを買って以後何度か読んでは、紹介のしかたが難しい本だと思っていました。
そんなこんなで感想を書かずにいたのですが、先日読んだ「街場の文体論」に、こんな記述がありました。

日本では「学問の質」とは別に、その学的知見が「どれくらい広い範囲に共有されるか」ということが問題にされます。せっかく世界の成り立ちや人間のありようについて価値ある知見が得られたのなら、できるだけ多くの人々に共有されるべきだという考え方に僕達がするからです。でも、これは世界標準的には「常識」ではありません。
(138ページ 第7講 エクリチュール文化資本 知的な階層差をつくりたくない日本 より)

ここで、ああそうかと腑に落ちました。この「ヨーガ」という本は、ウパニシャッドとバガヴァッド・ギーターとヨーガ・スートラとサーンキヤ・カーリカーを読みつつ、仏典やジャイナ教の教えについて多少知っていないと、たぶん素晴らしさがわかりません。でも先にリストした本を読んだ上で読むと、かねてより自分の中で保留にしていた疑問が整理されるので感動する。
著者さんの筆は読み手に予備知識がある前提でビュンビュン走っている。そのうえ、翻訳も素晴らしい。日本人の感覚で読むとちょっとイヤミっぽくも聞こえそうだけど、「わかる!」という箇所が何度かあって、哲学の国の人が他国の哲学に取り組むとこうなるのか、という感じがします。


というように、決して初心者向きではないのですが、紹介したいのは紹介したい。何箇所か、シビれた箇所を紹介します。
以下のような指摘はよく見られますが、この先生もおっしゃっています。

仏典の翻訳は中国とインドの共同作業のもとに翻訳官たちによって、最も賢明な方法でかつまた最も厳密に細心の注意を払って行われた。しかし儒教の語彙は起源のヨーガにせよ仏教のヨーガにせよその本来の実践を解釈するためには十分でなかった。チベット語訳のほうがずっと正確である。(53ページより)

儒教の語彙」という言いかたをされる。
ちなみに、わりと似たようなことを、中国のかたも指摘されています。(参考



オーロビンド・ゴーシュについても、以下のように冷静に分析されています。

彼は、ヨーガという語の用法を少々広げ過ぎる。彼にいわせると、無私無欲なあらゆる思弁ならびにあらゆる義務がヨーガになってしまう。われわれは、インドの価値基準であるヴェーダならびにバラモン教が、ヨーガ行者たちの固有な領域の外にあったことを無視したり忘れたりするわけいはいかない。(79ページ)

たしかに、あの英語で読んでいて格段にわかりにくいのは、用法の広さにあるのかもしれない、とハッとしました。



わたしはヨーガ・スートラについてはかねてより「なんでパタンジャリはイーシュワラという存在を立てちゃったのだろう。あれは存在として置いたのか概念なのか。どこに・なにに配慮してのことだろう」という疑問を持っていて、そこに迫る要素がこの本にチラチラ出てきて、最後はズバッと言ってて感動するのですが、文献の説明は点在しつつこのようにわかりやすいです。

<49ページ サーンキヤ=ヨーガの均整 より>
 叙事詩の時代に、ヨーガは文献としての体裁をととのえる。それより以前に、ウパニシャッド文献だけはヨーガについてそれ相応に論じたが、壮麗な文体がヨーガの教理を損ってしまった。ウパニシャッドは、ヴィシュヌ神の権化を崇拝する《世俗の》信奉者たちやシヴァ神に帰依する《陰鬱な》信者たちの好みに合うように神学としてのヨーガを示す必要にせまられなかった。われわれが認識しておくべきことは、ヨーガ・スートラの作者パタンジャリが述べているイーシュヴァラ(isvara)はある主宰神の抽象性を帯びたもので、ヨーガ行者の守護神となった中世のヴィシュヌ神シヴァ神のように多様に変容する神格が備えている例の具体的諸特性をもちあわせていないという点である。

この書き方だとすごくわかりやすい。「壮麗な文体がヨーガの教理を損う」って、すごくわかりやすい。こういう調子で書いている本にはなかなか出会えません。


<56ページ 中世のヨーガ より>
スートラはジナ教と仏教徒の二つのヨーガに比べると無味乾燥で抽象的であるが、バガヴァッド・ギーターに現れる叙事詩のヨーガに比すれば簡明である。

叙事詩のヨーガ」っていういい方も、なにげに「そうだ、そうなんだよなぁ」と思う。



中国や日本の儒教とはまたちょっと違う、インド独特の権威主義っぽいところの説明も、すごくはっきりしています。

<9ページ ヨーガの権威 より>
およそ歴史に関して、なかでも特にインドの場合に、問題となるのは真理ではなくして、権威である。真理は、論理学ないし数学の分野でのみ考慮されるべきもので、かつまた《西洋》の観念である。それに対して権威は、宗教的に献身的なインドの至上な基準に相当するのだが、その場合、正統性・信奉性・ヨーガが問題となる。バラモンは《完成した》ないし《完全な》言語、すなわちサンスクリット語を駆使して、聖なるものに合致した音声の表出に権威を維持している。信者は自分が信奉する宗教の指導者によって唱えられた使命を実現する行為ならびに宗教的態度に威信をおき、それを保持しつづける。他方ヨーガ行者は大胆な行動を徹底徹尾可能な限りやり通すのであるが、そのことがヨーガの達人たちに大きな効力をもたらすことになる。

(中略)

ヨーガ行者は経験論的実用主義者の創始者である、インドは彼らヨーガ行者たちを大いに誇りにしてよい。なぜなら、西洋における合理主義の巨匠たちの苦心のたまものをインドがねたまずにすむのは、彼らヨーガ行者のお陰だからである。

この最後のちょっとイヤミっぽい感じがおもしろいのだけど、それによってすごくわかりやすくなっている。こういうのをエスプリというのか。


<64ページ 正常から逸脱する作用 ── 静慮(dhyana)と三昧(samadhi)より>
 仏教内部の諸学派、正統派のカースト、ならびに独立の諸教団の間で、瞑想の形態は無限に異なっている。ヨーガ行者は抑制を望み、仏教徒は消滅を願う。シャンカラは幻を持ち出し、問題の要点を避け真正をつかむ。中世の神秘的インドに続いて、政治的な現代インドは自由を要求せずに解放を手に入れた。
このインドの態度は、ルソーに代表される《人は生まれつき自由である》と宣言したヨーロッパ人の態度と正反対である。われわれヨーロッパ人が夢想家だと思っているインド人たちが、実は、絶対者をも含めて、あらゆる目的は実習(sadhana)を通して得るのでなければ達せられないことを承知しているのである。

この「目的」の箇所に注釈をつけて、ちょこっと「実利論」に触れているのがまたニクいというか、まあほんとよくこんな展開で語るもんですねとびっくりする。「シャンカラは幻を持ち出し」って(笑)。軽いリズムも含めて、まるでヨーガの落語を聴いているかのよう。ここは勢いを崩さない訳も素敵。


<15ページ 行動の規律 より>
 ジナと仏陀とは世間に知られた最初のヨーガ行者であって、この二人の苦行は祭式一切から免れているという点で異例の壮挙である。この二人はヨーガによって自己を鍛えあげたのであるが、そのヨーガは信仰でもなければ崇拝でもなく、精神生理学の範疇に属する見事な肉体訓練である。この起源はどこにあるのだろうか。それはなんらかの聖なる規律のなかに求められるべきであろうか。あるいはインド起源ではなく、輪廻の転変について曖昧なインドの固定観念とは相容れないものではないであろうか。

「輪廻の転変について曖昧なインドの固定観念」って言い切っちゃってるのが、なにげにおもしろい。このあたりはスマナサーラさんと似たトーン。(参考


<17ページ ヨーガとインド精神 より>
 もしインドにヨーガがなかったとしたら、インドは業(karman それは屈従思想ともいえよう)以外の力を知らずにいたかもしれない。ヨーガ行者が敢行した企ては前世の宿命を一掃する。それは人に解脱への企てがあることを思い起こさせるものであり、諸々の行為が障害をひき起こし、足枷をはめ、無力化の原因であるとする考え方と真っ向から対立する。それにしてもヨーガで説く全く反対の二つの判断、つまり「行為の無価値」と「大胆な行動による救済」との両立を説明しうる論理などありえようもない。ともかくヨーガは業思想とは違う秩序によるものなのであり、熱烈な企てであって宿命論ではない。

この本では真っ向から対立させないようにうまくか書かれているのがギーター、という説明がされていないのですが、その要素をあっさりカッコ書きの中の「それは屈従思想」が含んじゃってるのがすごい。


<52ページ 仏教のヨーガ(一〜七世紀) より>
 ジナ教と仏教とは、両者が実践しているヨーガを伴って、チベットと境を接するインドに姿を現わした。しかしわれわれは、仏教のあらゆる形態が等しくヨーガを基盤としていると考えるのは差し控えるべきである。(中略)無私無欲な明敏は、自己に対する訓練と完璧な抑制とを必要とする。苦行の実践を手段とする仏教でいう救済を決定するものは、まさしくこの明敏である。このようにヨーガは手段であって目的ではない。したがって仏教徒がヨーガ行者になるのは、明敏になるためのみである。仏教には、キリスト教における贖罪をするためにという観念は微塵もない。

「ヨーガは手段」であることを説明したあとに、「仏教徒がヨーガ行者になるのは、明敏になるためのみ」という言いかたにつないでいく、このわかりやすさ。しびれる。



以下はこの本の説明の中で「そこもこんなに、掘ってくれるのかぁ」と思いながら読みました。

<41ページ ヨーガは祭式と霊知との間に挿入される ── 初期ウパニシャッド ──  より>
 バラモン教はヨーガというものを徐々に取り入れていくが、ついにそれは必要に迫られてバラモン教のなかに根をおろすことになる。この場合バラモンたちはジナ教と仏教という二つの邪教と対抗せざるをえなくなった。そしてヨーガが《解脱》へ歩むに関して本質的手段(いいかえれば《救済》への手段)であることを立証した。この仕事は初めのうちは何の懸念もなかったが、正統派にとって欠くべからざるものであることが判明してから、主要なものになった。爾後バラモン教バラモンの本分(svadharma)つまり祭式の権能のみを全うするものではなくなり、全インド人のための救済宗教となった。

この、バラモン教とヨーガの関係の微妙さの説明、「必要に迫られて」のところをもっと知りたくなりますよね。当時の仏教はたいへんな脅威だったようなので、もしタイムマシンがあったらこの頃のバラモンになってみたい。この「必要に迫られて」が、ヨーガ・スートラの第一章がちぐはぐな構成に見える件とつながっているように思うのだけど、この謎はいつかわかるだろうか。


<106ページ 結論 より>
ヨーガ派はヨーガそれ自体であると同時に、サーンキヤ派の理論組織を取り入れる。サーンキヤ派は理論面をうけもち、ヨーガ派は実践面を主にうけもつ。
ヨーガ派は、サーンキヤ派を生かすのに自己流のやり方でバラモン教化した。インド精神の偶然性にとらえられたヨーガ派は主唱者になった。つまりアリストテレスの純粋行為と同じように、ヨーガ派の頂点は《独存》(kaivalya)ないし《主宰神》(isvara)という点で魅了し、存在論的段階からいうと、いわば《第二六番目の原理》として重ねられる。

サーンキヤは25原理を説いているのですが、イーシュヴァラを26番目の原理として重ねる。こんな見かたがあったのかと驚く。
そして、「ヨーガ派は、サーンキヤ派を生かすのに自己流のやり方でバラモン教化した。」と言われると、いろんな矛盾が解けるんです。で、そうだったとして、そのうえで仏教にもちゃんと牽制球を投げそうな気配をおいているのがすごい。教典の存在そのものすらも、「バランス」を教義としているかのようなヨーガ・スートラ。


わたしは「ヨーガ・スートラの謎(なんでイーシュヴァラ立てちゃったの?)」は「写楽ってほんとうに消えたの? 誰だったの?」というのと同じような感覚で「考えると楽しくなるトピック」なのですが、この本にある結論はかなりキューンとします。ちょっと美談すぎやしないかと、サーンキヤ・カーリカーに対してツッコミがなかったことも含めて少し気になりはしましたが、たいへん興味深く読みました。


ヨーガ (文庫クセジュ 594)
ポール・マッソン・ウルセル
白水社