うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

病気は治る ヨガ叢書〈第4巻〉沖正弘 著

ものすごく久しぶりに沖先生の本を読みました。久しぶりに読んでみたら、わたしはヨガをはじめてすぐに沖先生の本をたくさん読んだことでかなり思想が自分の中に入っていることに気がつきました。そしてここ数年でインドの教典を読み込むなかで、あの手この手でその教えを伝えようとされた沖先生の仕事ぶり、何度も同じようなことを言い続け、何冊も同じような本が出ていることに驚きます。同じことを言い続けるのって大変だから。

沖先生の本をここ数年読まないようにしていたのにはいくつか理由があるのですが、ひとつは「いまの時代の、いまの生活をする人の身体を見る」ことに対して影響をうけないようにするためでした。昭和30年代~50年代の本は語調に言い切りのものが多く、読んでいるだけでその目になってしまいやすいと感じます。
それでもいま読んでみたら、自分はあまりそういう点で影響されておらず、安心しました。そしてもう一つ、安心して読める材料を見つけました。沖先生の本にはよく道場経験者の感動の作文のようなものが収録されているのですが、合宿に参加した人の以下のような記述もそのまま掲載されています。

 夜はみんな集まって、座談会、歌を歌う歌の行法、何もかも吹きとばすほどの勢いで笑いころげる笑いの行法。一人が音頭をとり、みんな一斉に大声で笑う。 その笑い声が不思議な和音をつくり、そこにいる人達を何とも形容しがたい独特の世界に引き入れる。そこには暗示の力が巧妙に働き、宗教的な匂いすらする。 ここにおいては沖導師は絶対的であり、そのかもしだすムードは、ちょうど教祖さまといった感じを受ける。
(マダム誌掲載作文の転載部分より)

ほかの道場経験者の作文の中には、結果としてほかの国内新興宗教グループのdisり(うん、批判というよりもdisり)になっているものもあったりして、こういうコントロールのきかなさのようなものは、この時代の発言の自由さでもあるよな…と思うのだけど、上記に引用したような感想も載せている。

 

道場経験者にひとり、印象的な文章を書かれているかたいらっしゃいました。戦後の経済成長時に30代で、当時莫大な利益を得たという人でした。
病気をきっかけに当時の生活態度や精神のありようについて反省しながら振り返る文章ですが、過去の自分はバカだったというトーンに強く振り切りすぎていないところが印象に残りました。
そんな昭和の沖先生の、当時どかすか出版された本のひとつをまた読んでみて、そこで語られていることはわたしもインドで見たり聞いたりしてきたことでもありました。

 ヨギは自分を養う儀式として冥想状態で食べるといわれます。
(胃を丈夫にする方法/2.食事について)

いまも時々思い出してひとりでシーンと部屋でご飯を食べるのですが、わたしが一時期お世話になったインドのヨガ学校の指導者養成コースでは夕食中のおしゃべりが禁止されていました。

 

わたしがあまり食べる時間や量について気にしないのは、ヨガをはじめてすぐに沖先生の本を読みまくった効用のひとつであるなと、7年半ぶりに本を読んでみて思います。

 大食癖がつくと小食では生きられなくなり厚着に適応すると寒さに弱くなります。保護して生きますと、その保護物に適応して、そのものなしには生きてゆけなくなり、胃によいといって消化し易いものばかり食べていると、一寸した不消化物に害される体の持主になり、自分に内在するものを他物で補ったりすると、ある力をねむらし、あるものまで出せなくなり、お大事にとかばって使わずにいると無用物トウタの法則にひっかかって退化してしまうのであります。
(依存生活、依頼心が病因 より)

 過食癖がつきますと過食しても平気になり、生来胃腸が丈夫に出来ている人は過食で胃腸をやられずに、脳溢血やそこひや糖尿病その他の過食病になるのであります。又、喉をいため易い人もこの例であります。
(慢性的胃腸病に関する悪条件の理由 より)

わたしはもともと胃腸が強いのですが、ヨガを始める前から一日三回の食事について、なんかお腹が空いていないのに食べる機会が多いと思っていました。生きるためでなく感覚を麻痺させるために、なにかを忘れたくて食べていることが半分くらいな気がしていました。なのでヨガを始めた頃にこの食事の考えかたを知って、いいなと思ったのでした。

 

インドの医学概論書「チャラカ・サンヒター」に以下の記述があるのですが、沖先生の教えはまさにこのまんま!

  • 食物の適量とは、消化の火の力によって決まるものである。(5-3)
  • なぜなら、ある量食べられた食物が、食べた人の自然状態(プラクリティ)を損うことなく、しかるべき時間で消化に至れば、その量がその人の適量であると知られるべきだからである。(5-4)

 

 

沖先生の表現のなかにひとつ、印象に残るものがありました。「神経が傷ついている」という言い方です。

 潰瘍は胃に来ている神経をなおしておかない限り再発します。このことは何も潰瘍だけのことではありません。どの器質的病気も発病するためには神経も又傷ついているのであります。
胃潰瘍について より)

ここを読みながら、夏目漱石胃潰瘍のことを思いました。神経が傷ついている人でなければ書けないような表現と胃潰瘍の関係です。
わたしは運動の回路の一部がなかなかつながらないとき、その部分の神経がほかの出しゃばりの神経に対して怒っていてストライキを起こしているように感じられます。なので神経が傷ついている=神経がいじけてるというふうに変換したい気持ちになりました。


そのほかにも、この時代の本なのでツッコミを入れずにはいられない表現ばかりです。いまの時代でいったら「小さい」というようなマイルドな表現になるであろうところでミミチイ(みみっちい、をカタカナの口語で!)書かれていたり、あちこちで思わずウディヤーナ・バンダが外れる。
ノイローゼという単語もいつものようにたくさん出てきます。昭和45年の本です。

病気は治る (ヨガ叢書)

病気は治る (ヨガ叢書)

 

 

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