最近いくつかのことをきかっけに、「どうしてもすぐに規範を探してしまう癖」について考えました。
固定観念なしに作業をやってみましょうという場でも、お題が出ると
○○をするってことですか?
○○な感じでやればいいのでしょうか?
これで、あってますでしょうか?
と、つい口をついて出る確認の質問。
これはわたしの開催するある講座で起こったことですが、これについて、実際にその質問をした人とあとでお話ししたら、「間違ったことをしたら、つまはじきにされる」みたいな思考が自動的に発動してしまうのだそうです。まったくそういうことを気にしなくてもよい前提の場でも、発動しちゃう、沁みついちゃってるのだそう。
先のようなエクスキューズは場の空気を乱さないようにという配慮含んでいる場合もあるから和の精神でもあると思うのだけど、個人的な練習の場でもそれは発動してしまう。平均を意識しなくてもよい場でも、考えてしまう。
こういう
はじかれる恐怖
わたしもこの感覚、わかるんですよね…。受験や就職で「ボーダーライン」を意識せざるをえなかったり、新しい環境で暗黙のルールを理解せずに行ってしまったことに対する仕打ち、ほかにも世間知らずゆえにやらかし、受けてしまう「けしからん」というお怒り。もうそういうことで摩耗したくないという気持ち。
そしてつい「確認する」のは、ある意味ひとつの知恵のはたらかせかたではあるのだけど、この確認をぐっと抑えてまずは行動してみることが、肚ができてきたということのようにも思います。
自分で考えなさい
これは子どもが親によくいわれることだけれど、自分で出そうとする答えが「親が喜びそうな答え」の範囲を越えないように、子どもも忖度します。追い出されたら困るし、寝床や食事を与えてくれる人は神様だもの。
なので先のような質問をしたくなってしまう気持ちの種を見ると、それは自分にもあったことを知っているので「なんでかねぇ」と思います。
ヨガの瞑想の練習で立てる「サンカルパ」は、その場の方向性やムードに関係なく立てる目標・まとめる意志。何度も何度も「あれ? なんかこれどこかに忖度してる? 誰かに評価されたがってる?」と思って見直すことでやっとたどり着ける。宗教を「シューキョー」と発音する人の多い日本の社会のなかでは、神聖な誓いなどそんなにすんなり見つけられない。そういう側面もあると思っています。