うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

(再読)ヨガによる 病気をなおす知恵 沖正弘 著

パンデミックを機に生活スタイルが大幅に変わり、年齢的に代謝やホルモンバランスに変化が出てくるなか、ここ一年ほどこの本を手元に置いて、日々の観察をポストイットにメモして張りながら読んでいました。


この本を入手して最初に読んだのは2011年なので、じっくり読むのは11年ぶり。

 

 

ここ数年の話ですが、わたしは2020年に「首が硬くなった!」と強く感じ、同時期からホルモンバランスの変化も気になり、今年の2月に11年ぶりに健康診断を受けました
検査結果はいたって健康だけど、それは数字上のこと。微妙な変化を自分で感じています。
そんなここ数年のあれこれがあって、いまの状態であらためて読み直して生活に取り入れられるものはないか。そんな目的で読みました。

 


沖先生の本は、読むととにかく断食をすすめられるのですが、食生活の面ではそろそろ量を減らすサイクルにしていかねばと思っています。
以前も書きましたが、12時台にランチでうどんやパンを食べると血糖値スパイクで13時台に腰が重くなり、14時台には頭痛がする。この2年間で観察を続け、いまの身体に適切なランチが見えてきました。

 

この血糖値スパイクの件と連動しますが、わたしは酸性に偏らない食事をしたほうがよく、さらに塩分も減らしたほうがいい。

 中年後は、食塩排泄力が低下して残留塩分が皮膚をたるませるし、メラニン色素のはたらきも高めるから、塩分はとりすぎないように気をつけなければならない。
(277ページ 皮膚の話 より)

ここ数年で食事のほとんどが自炊になったのはよいのですが、「白だし」にしたことでなにげに味付けが濃くなっていないかと気になっていました。

 


頭をくつろがせることの必要性も、毎日感じています。

 ボケたくない人は、死ぬまでよく頭を養いかつ使うとともに、座禅や信仰的なことで脳をくつろがすことである。
(326ページ 老化を防ぐには より)

わたしはここ一年ほど、毎朝同じやり方で瞑想をしています。『ヨーガ・ヴァーシシュタ』を読み、その内容を瞑想するという方法です。この型で続けてみたら、脳はくつろがない方向へ勝手に展開したがることがよくわかり、なにも生産していない間もこの状態で一日中いるかと思うと、そりゃ脳は疲れると思うようになりました。
「座禅や信仰的なことで脳をくつろがす」の大切さが、いまは30代の頃よりもよくわかります。

 

 

その、毎朝読んでいる『ヨーガ・ヴァーシシュタ』に、ときどき「精神的条件づけ」という表現が出てきます。

このことについて、沖先生ならではの表現だなと思う記述がありました。

 人間が生きていくために必要なことは、感受性と適応能力が正しくはたらくことである。この “内なるはたらき” がノーマルなら健康なわけだが、このはたらきは “自律的” なものであり、条件反射化するものであって、意志で支配することのできないものである。この能力は本来健康を保つはたらきであるが ”条件づけられる” という性格もまた持っている。
(中略)
こころの適応性が高まっていっさいの事象に対して、調和できるようになった状態を “悟り” といい、からだの適応性が高まってどういう環境や条件を与えられても安定性を保てるようになった状態を “人間的健康” といい、この両者が自分のはたらきとなっている人を “解脱(ムクシャ、自由)した人” とヨガではいっている。
(28ページ 動物的健康体と人間的健康体 より)

わたしはいま、【1】社会の変化  と  【2】自身の身体内のホルモンバランスの変化  の両方に適応しながら日々を乗り越える毎日を送っています。
上記に引用した部分は 【1】社会の変化、特にコロナ禍を経験することで、その力が試された気がしています。

 

【2】身体内のホルモンバランスの変化  については、以下に引用する部分に実感と重なるものがありました。

 こころとからだを結ぶルート、それは神経とホルモンである。生きるからくりは、刺激に対して大脳がそれを知覚し、その指令で脳幹部が感動し、その感動で神経とホルモンがはたらき出して全身に影響する。
(中略)すなわち、両者が交感共振しているのであり、感情や欲求がからだのはたらきに影響を与えていることは日常誰しもが気づいていることである。
(94ページ 心身医学とヨガ哲学の比較 より)

この最後の「両者が交感共振している → 日常誰しもが気づいていること」という部分が小さな気配の観察で細かくわかるようになって、これからはこの仕組みを理解したうえで、心身のチューニングを日々行っていくのだなということが見えはじめています。

 

 


さて。
沖先生の本が出された時代は「ノイローゼ」という言いかたをする時代。現代のように多方面へ配慮しまくった編集ではありません。

 私たちの住む人間社会は、目まぐるしく変わる環境や、むずかしい社会生活、問題の多い人生問題に取りかこまれているから、よほど幅の広く、深い柔軟なこころの柔軟性を身につけていないと、緊張、興奮、混乱のつづくこころで生きなくてはならないことになり、低くせまい適応心の持ち主が、必然的にノイローゼにもならざるをえないことになる。
(96ページ  心身医学とヨガ哲学の比較 より)

「問題の多い人生問題」って文章にするとヘンだけど、でもこういうループに入ったらノイローゼになるという感じがよく伝わってきます。


ノイローゼについては、終盤でしっかり掘り下げた章があります。
沖先生は先に二度引用している「心身医学とヨガ哲学の比較」の章で、 ”執着” をカッコ書きで(同一のこころの内容をつづけること)と書かれています。
ノイローゼについては、このように分解・説明されています。

ノイローゼ氏は特定のことへのこころのとめ方が癖づいていてそのことを忘れることができなくなってしまっている。
 このノイローゼになるにも、他の病気同様に準備となる条件と、きっかけになる条件と、それを持続させる条件の三条件が必要であり、しかもこの三条件が人によってみな違うのだ。
(338ページ ノイローゼで悩む人のために より)

この章を読むと、沖先生は多くのいろんな人を見てこられたのだなと思うのですが、わたしは三つ目の「それを持続させる条件」がクセモノだと思っていて、そこ、もっと書いて欲しかった! と思いながら読みました。

 

 

たとえば友人の愚痴を聞くとき、「準備となる条件」「きっかけになる条件」まではふんふんと聞けて社会勉強にもなるのだけど、「それを持続させる条件」というのはその人特有の蟻地獄みたいになっていることがあって、同調するのもむずかしい、そういう場面に出くわすことがあります。
クセモノだと思うのは個人の考えかたの偏りではなく、ヨガでいう Smrti。
その記憶を選んで保持し続けることを選択する機能、みたいな感じ。

 

前に日常レベルの感覚で書いたことがあります。

わたしは上記のような考えかたをするので、沖先生の分解説明と「それを持続させる条件」という言いかたがとても印象に残りました。

 

エビデンス至上主義で人権意識の高くなった2020年代に読むとツッコミどころの多すぎる本ですが、「自分の健康は自分で作ろう」と積極的に思えてきます。
特に内臓の健康に対して意識的になれます。

 

 

 

▼沖先生の本はヨガをはじめた頃にたくさん読んだので、読書ログ・リンクをまとめています