うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

これからこの人を知っていくのかな…と思ったときに、いきなり太鼓とバチを渡される

先日友人と雑談していたら、あることを思い出しました。その感じを話したら、友人も同じような経験をしていました。気になったのでこの性質について少し考えてみました。
有名大学出身であるとか有名企業に勤めているとかいたとか有名人と友だちであるとか生前親しかったとか親族であるとか、お見合いやパーティでの自己紹介で有効になるような情報を個人の出会いの単位でいきなり前面に押し出す人とのコミュニケーションのむずかしさについて。


わたしはヨガのインストラクターをはじめた頃(10年以上前のことです)、練習に来る人にはほかの仕事をしていることを聞かれなければ話していませんでした。すすんで話す機会はないし、練習での出会いではそんなに必要のない情報だから。それでほとんどの人は普通に接してくれました。もともとわたしはその学校の生徒だったので、女性同士の間柄では更衣室で会う時間帯や持ち物・服装でなんとなくわかりあっているところもありました。でもヨガウエアのときしか会わない人のなかには、そうでない人もいました。


「いつもここにいるんじゃ、ろくなもん食べてないだろ? いっちょ、俺がうまいもんでも食べに連れてってやるかぁ~」といって明るく声をかけてくる人がいました。それは新卒入社のときに会社の先輩がごはんをごちそうしてくれたときの声の掛けかたとは違う感じで、その人の中でなにか前提条件が固定化されているようでした。「いつもここにいる」も「ろくなもん食べてない」も想像です。こういう文脈で食事に誘われたのが初めてだったので、人にはこうあってほしいという情報だけを選んで保存する機能がある、そういう心のはたらきについて考えるきっかけになりました。

わたしはこういうときに「あれは、照れ隠しだよと」という助言をする人を親切とは思いますが、実のところ信頼しずらいとも感じます。照れ隠しと見下しが両立する状況を第三者が確定させる耳打ちは、30代前半のわたしにはダメ押しのように重く暗く響きました。こういうときは、「まだまだああいう人って、いるんだね」のほうが立ち直りやすい。

 

この経験はOLとしてはたらく場で活きました。取引先担当者からの断りにくい食事の誘い、関係他部署の上役から指名される集いへの参加に悩む同僚の話を聞くときに、ヨガ教室での自分の経験に置き換えることができました。「不器用な人だね」とか「それは照れ隠しじゃない?」という返答をしないので、「聞いてくれてありがとう」と言ってもらうことができました。こういうときは「昭和か!」とか「悪代官か!」のひと言のほうがありがたかったりするものです。


ほかにもこの種の球は随時見逃してきました。2ストライクまではバットを振らないどころか、基本的に振らないくらいのスタンスです。むずかしいのは遠慮でも謙遜でもない「プレ」のワンクッション(ひとまず様子をうかがう)が社会で無駄にいじめられないための基本動作であることに気づかない人がいることです。ピッチャーの投球タイミングを見るためにバッターボックスで一度後ろに体重をかけるクッション動作の時点で技能がないとみなされる。そこで固定していきなり加重される。それをせずにバットを振ろうとすれば出しゃばりだといわれる。中間を行くのはとても難易度が高いのです。
当てるだけで確実に飛ぶど真ん中のストライクにバットを出して、実際飛んだときに「能ある鷹は爪を隠す、だなぁこれは。いやはやたいしたもんだ。がっはっは」という人が居るけれど、がっはっはじゃなくてさ、そんな話じゃないでしょうが!(←「子供がまだ食ってる途中でしょうが!」by田中邦衛 の口調で) と心の中では思っても、現場ではとっさに要約できません。書いたらこんなにも長くなることを、日常会話で言葉になんてできない。


このことを想像しない人から突然 "褒めよ、崇めよ、持ち上げよ" という球を投げられたとき、わたしのなかで一瞬時間が止まります。ボールが止まって見える。球種はカーブ。スライダーで差し込まれたら一目置くのに、たいていは打ちやすいカーブが投げ込まれる。名バッターじゃなくても止まって見えるわそんな球! 子供がまだ食ってる途中でしょうがぁぁぁあああーーー!!!!! 

 

 

 一方的に自分の経歴の話をされて、
 リアクションを考える間もなく太鼓を渡される。
 「わたしの舞台の太鼓を、君に叩かせてあげよう。はい」と。

 

 

太鼓持ち」という役割をここでスッと引き受けられるかどうか、わたしはここをうっすらと人間の性質の分かれ目だと思っているところがあります。日本だけでなくインドやイギリス、アメリカなど外国の小説や物語を読んでそう思うようになりました。これを上手にやる人を見ると、ぐうの音も出ません。普段から隷属願望をくすぶらせているだけの人と、心の動体視力が高い人では圧倒的に対応がちがう。後者は技術がある。こういうとき、日々の訓練がものをいうなと思います。わたしには何人か心の中でお手本にしている人がいます。


わたしは有名な人を囲む会に「◯◯会」と名前をつけて呼びあう人を見ると、軍歌を歌っていた父の様子を思い出します。終戦時に乳児だったはずなのに、軍隊に入っていないはずなのに、露営の歌を歌える。まるで自分が戦争へ行って来たかのように。ああいうふうに同じ気持ちになれる能力を、協調性というのでしょうか。わたしは協調性という言葉の意味がずっとわからないまま年齢を重ねています。

それにしてもこういうチップって、どこで埋め込まれるのだろう。わたしはどのタイミングでそのお知らせを見落としてしまったのだろう。寿命も延びているのだし、もっとゆっくりお互いを知っていけばよいのにと思うのですが、こういう考えは少数派なのかな。