9月に、この本のことを書きました。
この本を読んでいると、ヨガの教えに触れていろいろカルチャー・ショックを受けた時のことを思い出します。
わたしに初めてヨガの話をしてくれたインド人の先生は、こんな調子でした。
ヨガは昔、インドの暇な人が考えた
僕たちは忙しいネ
だから、ただやればいいネ
わたしが生まれる前から日本で暮らしていた先生からのインプットは、独特の日本語、そしてときどき英語でした。
元気になる・健康になる・スッキリする・ピカピカになるという言い方で、「○○のためのヨガ」のようなテーマを掲げることはなく、「こういう時は、こうする」という教えがその日その都度引き出しから出てくる。
根拠は「昔、インドの暇な人が考えた」「僕、そう教わった」です。
この独特のルールにハマってしまい、わたしはいきなりヨガが大好きになりました。
わたしは先生から、アーサナの指導以外ではこんなことを言われました。
今日は帰ったら玉ねぎ食べてネ
目が赤いダカラ
生で食べて
なんでですかと聞いても「目が赤いときは、玉ねぎ食べる」とゆっくり言い直されるだけなので、いちいち確認しなくなりました。
最初がこのようなはじまりだったので、わたしはインド思想を勉強をしている間も、昔のインドの人の考えに感嘆しつつ、同時に「さすが暇だっただけある」と思う癖があります。
なので、「○○のためのヨガ」のように、目的のためのアクションとしてヨガを訴求されると、心の奥に乾いた風が通るんですよね……。なんだかシラけちゃう。
『日日是好日』という映画を観ていたら、お茶の先生が「とにかくそうするの」「お茶って、そういうものなのよ」とお茶目に答えていて、ヨガをはじめた頃の気持ちが蘇りました。