サンカルパについてヨガクラスの前に質問を受けたので、その日の回答を捕捉する形で、以下のことをブログに書きました。
これを書いたら、質問を投げかけてくれたかたがフィードバックをくださいました。
こちらから「書きました」とも「読んでください」とも言っていなかったので、読んでもらえただけでもうれしかったのですが、わたしが以前ヨガクラスで話したことを踏まえたうえでのフィードバックでした。
自分の文章がまとまらない理由、ヴィカルパがわかりました
わたしはサンカルパについて話すときに、サンカルパではない状態の「ヴィカルパ」と「ニルヴィカルパ」をあわせてお伝えすることがあります。これはわたしなりの工夫です。
それで、そのあとでサンカルパの意味をぎゅっと要約して
この肉体に乗った意識が散漫ではない状態のことです
と伝える。そういうパターンで説明をすることもあります。
で、やっとここからが今日の本題なのですが、サンカルパの理解は3つのカルパを知ると深まります。
今回もChatGPTさんの手助けを借りながら書きます。
その前に。
インドの言葉は音で分解していくものなので、先にその構成だけお伝えしますね。
(漢字の部首の組み合わせみたいな感じです)
サンカルパ = サン + カルパ
ヴィカルパ = ヴィ + カルパ
ニルヴィカルパ = ニル + ヴィカルパ
ニルカルパという言葉はありません。(この感じがわかってくると「創造」が理解できてくるのですが、長くなるので割愛します)
とにかく、上記のように分解すると理解しやすくなります。慣れてくると、日本人が漢字で "さんずい" がつくから水に関するものかな? と推測をするのと似た感覚がついてきます。
サンカルパについては前回やったので、今回はヴィカルパの説明からいきますね。
前回同様、質問者はわたし。回答(引用文)はChatGPTさんです。
質問1:サンスクリット語のヴィカルパの意味を教えてください
「ヴィカルパ」は、サンスクリット語で「仮定、想像、仮説」などの意味があります。哲学やヨーガの文脈では、ヴィカルパは、人間の認識の誤りの源である幻想や妄想と関連付けられることがあります。ヴィカルパの概念は、インド哲学や精神修行の分野で重要な概念の一つであり、真理を求める過程において、認識の誤りを避けるために注意を払う必要があるとされています。
質問2:サンスクリット語のニルヴィカルパの意味を教えてください
「ニルヴィカルパ」は、サンスクリット語で「仮定のない、想像のない、仮説のない」という意味を持ちます。哲学やヨーガの文脈では、ニルヴィカルパは、完全な認識、純粋な意識、あるいは真理の状態を表す言葉として使用されます。ニルヴィカルパの概念は、ヴィカルパの反対語であり、真理を追求する上で認識の誤りを排除し、純粋な意識を実現することが目的とされます。ニルヴィカルパの状態は、ヨーガ哲学における最高の状態の一つである「サマーディ」とも関連付けられています。
ニルヴィカルパの概念はヴィカルパの反対語と言いつつ、反対になったときに純粋さの概念が大きくなっていく。ここに気づけるかが重要です。
ここで一度、感覚としてインストールしていただきたいのが
神聖さ・純粋さというモノサシがどーんと前提にある
ということ。
神/神的な人間/神に近づこうとしている人間/神に近づこうとしない人間、みたいな意識の分類で考えることを当たり前にやるところが、人間界だけのお行儀で格付けする日本との大きな違いです。
ChatGPTさんの限界もこのあたりからで、人間界だけのお行儀で格付けする人たちの言語で説明するむずかしさに混乱する様子が、文章に現れてきます。
ここからは、ChatGPTさんの作成文章にわたしの補足(打ち消し線)を入れます。
質問3:サンスクリット語のニルヴィカルパとサンカルパの違いを教えてください
「ニルヴィカルパ」と「サンカルパ」は、サンスクリット語で似たような意味を持つ言葉ですが、微妙な違いがあります。
「サンカルパ」は「想定、考え、意図」を意味し、意識の力で意図や想像を形成することを指します。例えば、瞑想中に自分自身に対して「私は平和である」というアファーメーションを行う場合、それはサンカルパの行為であると言えます。
一方、「ニルヴィカルパ」は、「サンカルパ」の反対語で、「想像、仮説、思考のない」状態を表します。つまり、ニルヴィカルパの状態では、意図や想像を超えた、純粋な意識が実現されます。ニルヴィカルパは、ヨーガ哲学における最高の状態の一つであり、真理や宇宙の本質を直接認識するための状態とされています。
つまり、「サンカルパ」は意識で形成された想像や意図のことを指し、一方「ニルヴィカルパ」は、想像や仮説を超えた純粋な意識の状態を指します。
一行目の一部に打ち消し線を入れました。
神聖さ、神へ近づくことへの渇望みたいなものは言葉の上では測りようがないので、「微妙な」違いとは言えないかな、という意味で打ち消しました。
二行目からの説明は、人工知能ここまできたかと驚くほどの説明のうまさです。わたしの出る幕はありません。
次の質問の回答では、ChatGPTさんが「人工」知能であり、神に作られた知能ではないことが見えてきます。
質問4:サンスクリット語のヴィカルパとニルヴィカルパの違いを教えてください
「ヴィカルパ」と「ニルヴィカルパ」は、サンスクリット語で似たような言葉ですが、微妙な違いがあります。
「ヴィカルパ」は、「仮定、想像、仮説」といった意味を持ち、人間の認識の誤りの源である幻想や妄想と関連付けられることがあります。ヴィカルパは、誤った仮定や幻想にとらわれることで、現実とは異なる見方をしてしまうことを指します。
一方、「ニルヴィカルパ」は、「仮定のない、想像のない、仮説のない」という意味を持ち、真理を求めるために認識の誤りを避け、純粋な意識を実現することを目的とした状態を指します。ニルヴィカルパは、ヴィカルパの反対語であり、真理を追求する上で認識の誤りを排除することが重要とされています。
つまり、「ヴィカルパ」は認識の誤りや幻想による見解を指し、「ニルヴィカルパ」は、真理を追求する上で認識の誤りを避け、純粋な意識を実現することを目的とした状態を指します。
そこは微妙な違いではなく根本的な違いでは? と思うかどうかが、 人工知能 or 神の創造物に収めらた知能の分かれ目のような、興味深い現象が起こりました。
それはさておき、これらの前段を経ての、本日のメインの質問です。
質問5:サンスクリット語のサンカルパとヴィカルパの違いを教えてください
「サンカルパ」と「ヴィカルパ」は、ともにサンスクリット語で意図や想像、思考について言及する言葉ですが、微妙な違いがあります。 *1
「サンカルパ」は、「意図、想像、思考」という意味を持ち、人間の意識の力で、具体的なイメージを形成したり、目標を設定することを指します。例えば、瞑想中に自己啓発のアファーメーションを唱えたり、目標をイメージすることはサンカルパの行為と言えます。
一方、「ヴィカルパ」は、「想像、仮定、仮説」という意味を持ち、実際には存在しないものを想像したり、推測したりすることを指します。ヴィカルパは、誤った想像や仮説にとらわれることで、現実とは異なる見方をしてしまうことを指します。
つまり、「サンカルパ」は意識の力で具体的なイメージを形成したり、目標を設定することを指し、「ヴィカルパ」は、実際には存在しないものを想像したり、推測したりすることを指します。
サンカルパについて、わたしが過去に「他者の評価が介在しない目標文章を作れるか」という言いかたをしたのは、他者の評価をイメージすること自体が「実際には存在しないものを想像したり、推測したりすること」だからです。
最後に、もうひとつ。
ここまで読んで、思考や意識の状態に名前がつけられていることに興味が湧いた人向けに。
質問6:サンスクリット語のカルパの意味を教えてください
「カルパ」は、サンスクリット語で「創造、形成、想像、作成」といった意味を持つ言葉です。カルパは、想像や創造力、あるいは神話や宗教的な物語の中で、神や神々が宇宙や生命を創造する際の力や行為を指すこともあります。
また、ヨガ哲学や仏教哲学の中でも、カルパという言葉は登場します。ヨガ哲学では、カルパは個人の存在を形成する五つの要素のうちの一つである「マナス(心)」を指し、人間の心の働きや思考力、想像力、創造力を表現する言葉として用いられます。一方、仏教哲学では、カルパは瞑想や修行において、意識の活動や心の作用について言及する言葉として用いられます。
総合すると、「カルパ」は、創造、形成、想像、作成といった意味を持ち、さまざまな分野で使用される多義的な言葉であるといえます。
今日のまとめ補足:言語と概念化、名付けと伝統
「カルパ」とか「スヴァ」とか、自発的な思考や意図について示す言葉が日本語よりも細かいレイヤーで解釈済(=名付け済み)なところがインド思想の特徴です。
わたしはこのことについて日本語に置き換えるときに、「むらさき」を喩えに使います。
うす紫、青紫、赤紫、藤紫、さらには江戸紫まであって、分類が細かいですよね。
だけど、青と赤の比率やその奥にある花の色や文化を知っているので、末尾が同じ「紫」でも、その違いを理解しています。青紫と江戸紫を並べられて、こっちが江戸紫ですって分類できる人って、けっこういると思うんです。
このくらいの分類感覚で、意識について語る伝統がインド思想の世界にはある。
そんなふうに捉えてもらえると、なかなか理解できない教えでも、時間をかけて親しんでいけるものと思います。
ぴこぴこ
*1:質問の文末が「違いを教えてください」なので、ChatGPTさんは無理やりそこに寄せようとしてくださいます。これが、「違い」に装飾をさせることになってしまって、質問文章によっては本質を見誤らせる文章を作成する。こういうことも起こります。