うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

三点倒立ができるようになる時に起こる「観念の断捨離」

このブログでわたしは三点倒立のことを何度も書いていますが、今年再読している『ヨーガ・ヴァーシシュタ』の第3章に、これは倒立ができるようになる時の変化と似ているな、と思う記述がありました。

 


ヨガにはいろんな「難しそうに見えるポーズ」がありますが、以下の2つのパターンがあります。

 


A:できなかった →   (必要な力・柔軟性を得た)→ できるようになった


B:できなかった →   (バランスをつかんで、できない前提の観念がなくなった)→ できるようになった

 


Aは日々の積み重ねがものをいいます。足を頭にかけるポーズなどは柔軟性のポーズなので時間がかかります。練習を長く中断するとできなくなります。
Bは、一度できるようになってしまえば、わりとすぐ取り戻せます。自転車に乗るのと似ています。

 

先日、『ヨーガ・ヴァーシシュタ』でヴァシシュタ仙がラーマに説く以下の言葉を読んでいたら、上記のBの内面の変化とよく似ているな、と思いました。

 ラーマよ。「自分は身体だ」という観念に根ざしている人にとって、小さな穴を通り抜けることは不可能だ。「わたしはそのような動きを遮る身体だ」という内奥の確信が、その妨げを消し去れば、そのような妨げも消え去る。
ヨーガ・ヴァーシシュタ 52   より)

練習しながらたまにふと沸き起こる「それにしてもインド人は、なんでわざわざこんなことをしようと思ったのか」という素朴な疑問に答えるかのような教えではありませんか。動かしているのは、身体ではなく意識だと。

 

 

そしてこれはわたしの自己観察から思うことですが、
「できる状態になりたくない」というのもまた、ひとつの内奥の確信です。
「こんなにすぐにできる状態になっていいわけがない」という確信かもしれないし、「怪我をするだろう」という確信かもしれないし、「できるようになったら自分は思い上がって、よくない面が出てくるだろう」という確信かもしれない。拾い出せばまだまだあります。

 


こういう思考に慣れ親しむのは、個人の脳や記憶や性格だけでなく、育ってきた社会の道徳・文化も大きいと思っています。
精神体・肉体・世間体というふうに考えた三つの身体(これはわたしの考え方です)の、世間体みたいなものをトータルのボディとして捉える個人の感覚が、日本人の場合は、特に強くある。

 

先にアーサナについてAとBに分けて書きましたが、ヨガのポーズのなかでも三点倒立は大きな力をそんなに使いません。
腕を使っているように見えるかもしれないけれど、脚の付け根や腹筋背筋が仕事をするポーズです。
脚を揃えて膝を伸ばしてぐわーっとゆっくり優美に上がっていく場合は別として、膝を曲げて関節を積んでいくようにして倒立をし、逆さまになって脚を伸ばして立っている状態になるのにそんなに筋力はいりません。
これだけでも、頭がスッキリします。このスッキリは、身体に捉われなくなるスッキリなのだと思います。

 

 

 

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