うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

元気はもらったりあげたりするのではなく、感染するのかも

3年前に、以下のことを書いていました。わたしは当時、ほんとうに「元気をもらいました」の意味がぴんときていませんでした。

上記のように考えること自体はいまも変わらないのですが、でも「感染する」というのであれば、わかる。と思うようになりました。
ひとつ、きっかけがありました。


安部公房の「砂の女」の以下の部分を読んで、これかと思ったのです。

 女の興奮は、当然、男にも感染した。しかし、いつもとはちがった、奇妙な哀しみのしこりがあった。女は、いま、夜光虫の波をあびたように、内側から輝いている。それを裏切るのは、逃がしてやった死刑囚に、いきなり後ろから発砲するようなものだ。さめていく感覚に、鞭うとうとして、ひときわ男は狂暴にふるまった。
(「砂の女」第二章・22 より)

性的興奮が感染するようにエナジーが感染したのだと思うと、理解できるのです。
理解のきっかけというのは、人それぞれ。わたしは多くの人が普通に使う「元気をもらいました」の意味が、ここでやっとつかめた気がします。


元気をもらうプロセスをわたしはかなり微細なものと捉えていて、
だからこそ



 そんなにひとくちに「元気をもらいました☆」なんて
 キャピっと爽快に言えるもんなのか? あぁ…はずかしいっ!



と、そういう恥じらいがあったのです。
これは謙遜ではありません。性的恥じらいに近いものです。
この感じ、わかる?



こんなこと言ったり書いたりしてるから、友人から「寂聴化がすすんでる」と心配されるのだよね。
ほっとけ!