うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

砂の女 安部公房 著


友人がわたしの部屋に置いていってくれた本。読み始めたら、とまらない。疲労の描写が、たまらない。
暑くてぐったりした体を横たえながら読むと、異様にしっくりくる。読みながら身体ごと連れて行かれる。なにこれ、すごい。

筋肉の隙間に、石膏を流しこまれたら、おそらくこんな気分になるにちがいない。
(第二章・22 より)

わたしは読んでいて筋肉痛になるような小説が好き。
こういう感じは夏目漱石の「坑夫」でも感じたけれど、同じく砂の世界を描いたサン=テグジュペリの「人間の土地」にあるような「生命欲」の描き方。ぐいぐいくる。


日本人が日本語で書く生命欲は、ナマナマしい。

 結局、なにも始まらなかったし、なにも終りはしなかった。欲望を満たしたものは、彼ではなくて、まるで彼の肉体を借りた別のもののようである。性はもともと、個々の肉体にではなく、種の管轄に属しているのかもしれない……役目を終えた個体は、さっさとまた元の席へと戻って行かなければならないのだ。
(第二章・21 より)

そのままインド思想の教典の訳になりそうな文章で驚く。まるでサーンキヤ・カーリカーを読んでいるかのよう。


この本はもともと「男性のエゴの描きかたが独特だから、ぜひ読んでみてほしい」と友人がすすめてくれたのだけど、こういう無理な自己弁護や自己肯定は、男性的という性質のものだろうか。

見られることに、こだわりがあると言うなら、見る側にだって、同じ程度のこだわりがあるはずだ……見られることと、見ることとを、それほど区別して考える必要はない……多少のちがいはあるにしても、おれが消えるための、ほんのちょっとした儀式だと考えればすむことだ……、それに、代償として得られるもののことも、考えてみてほしい……自由に歩きまわれる地上なのだ!……おれは、この腐った水面に顔を出して、たっぷり息がしたいのだ!
(第三章・30 より)

ここはいろいろモヤモヤしたけど、いま映像化するなら砂の女の役は壇蜜さん一択! と思いながら読みました。


この小説は嫉妬の描きかたにひとつ、すごく印象的な箇所が序盤にあって、いっきに引き込まれます。
主人公は教師なのですが

……じっさい、教師くらい妬みの虫にとりつかれた存在も珍らしい……生徒たちは、年々、川の水のように自分たちを乗りこえ、流れ去って行くのに、その流れの底で、教師だけが、深く埋もれた石のように、いつも取り残されていなければならないのだ。希望は、他人に語るものであっても、自分で夢みるものではない。彼等は、自分をぼろ屑のようだと感じ、孤独な自虐趣味におちいるか、さもなければ、他人の無軌道を告発しつづける、疑い深い有徳の士になりはてる。勝手な行動にあこがれるあまりに、勝手な行動を憎まずにはいられなくなるのだ。

ここで「希望」について語っているのが、終盤に響いてくる。
希望と夢、義憤と私憤、似たものついでにうっかり雑に外に出しがちな感情、そこを都合よく混同するときの境界がこんなにも緻密に書かれた小説が、あったのね…。ほかの作品も読みたくなる。久々にやばいパターンにはまりそうです。
小説のなかで東京オリンピックについてちょっと触れられているところがあるのも、なんかよかった。


砂の女 (新潮文庫)
砂の女 (新潮文庫)
posted with amazlet at 17.07.21
安部 公房
新潮社