うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

デミアン ヘルマン・ヘッセ著 / 実吉捷郎(翻訳)


これから世界が大きく変わろうとしている、戦争がはじまるらしいというときにこの本を読んだら、わたしはどれだけ揺れただろう。この衝撃と現実味に耐えられただろうか。とてもこわい。本の内容がこわいという意味ではありません。
ポジティブ岬とネガティブ岬の、きわっきわのキワまでを何度も往復する主人公の心理描写があまりにも細密で引き込まれ、時間があれば続きを読みたくて、読み始めたらこの本のことばかり考えていました。わたしはひとりでここまで考えを深めることができないし、心をひらいてあずけられる仲間がいなければ無理。わたしにも "デミアン" がいれば…と思いながら、どきどきしながら、ぞくぞくしながら読み終えました。


この主人公と同じように、わたしには安心したりなつかしさを感じる場所がないのだけれど、この物語の第七章で語られる「親しい道と道が合流する場合には、いつでも全世界がしばらくのあいだ、ふるさとのように見える」という言葉に希望を見ることができました。いままで自分が惹かれるものにいまひとつ理由を見出せないでいたのだけれど、わたしは「合流する場」にいるとやすらぎを感じられます。誰とだって、またしれっと合流できるのだと思えると安心できる。


感情のトレードを億劫と感じたり心配を先につかまえて停滞する段階も、この主人公はどこまでもやりぬきます。よくぞここまでやってくれたと思うほど。思春期の性衝動の描写は圧巻で、まるで自分にもそんな少年期があったかのような気持ちになりました。抑制というのはエネルギーを美化して分散させないと、自分がこわれてしまうように感じるものなのかもしれない。あの熱狂、あの没入、あの崇拝、あの狂信。ときに男性たちの見せるあの衝動の源泉は、こういうところにあるのかもしれない。そんな想像とともに読みました。


物語の主題はたぶん、善と悪の便宜。人は器用に善悪の便宜を運動神経的に振り分ける。だから戦争だってできる。どうやら人間はそのようにつくられているようなのだけど、自分の家族はどうやら善の世界しか見ようとしたことがないみたい。どうしよう…。そんな幼少期からの葛藤を抱えてしまう主人公。
序盤は読みながら胸がギュウとなります。そして終盤に向うほど、一行一行に重みを増していく。多くの人が見ているのは、どうやら善の世界ではないようだと気づいていく。

多くの、非常に多くの人たちが、攻撃のときばかりでなく、いついかなるときでも、あのまじろがぬ、はるかな、いくらか狂信的なまなざしをもっていた。目的についてはなんにも知らず、巨大なものへの完全な献身を意味する、あのまなざしである。
(第八章より)

ここだけ読むと、日本の戦争の話のようです。でもこれはヨーロッパの戦争の話。
この物語を読みながら、ヘルマン・ヘッセは東洋思想や瞑想を美化して捉えすぎじゃないかとも思ったけれど、登場人物のひとりから「生きることは、苦しいこと」という視点の言葉が発せられるまでの流れはとてもやさしく、自然に現実を受け容れやすくしてくれる。こんなにもドロドロとしつつ慈愛に満ちた物語を綴るなんて、自己開示の文章をダレることなく魅力的なバランスで延々書き続けられる作家でなければ実現不可能じゃないか。ヘルマン・ヘッセのほかの小説も読みたくなりました。