うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

その場に居ない人の行動を話さないことと、日常を楽しむセンス

先日、ヨガクラスにインドで知り合った女性が来てくれた。彼女はまだ30代前半だろうと思うのだけど、とてもしっかりしているので年下に感じない。
旅先で出会う知人にはめずらしく、第三者がいる場で共通の知人について「あの人にいつ、どこで会った」という話を一切しない彼女を、わたしはすごく信頼している。まだ若いのに、こういうことをどこで身につけてきたのだろう。
ほかにも、ヨガクラスを受けに来てくれる人の中でこの重要さをわかっている人の多くは30代。頭いいのね、あなたたち。と思う。ヤングは日常的にリア充情報を人に見せる際の検閲機能が細密なのだろうか。たまたまだけど、そんなふうに思うきっかけが続いた。


先に書いた彼女と会った前の日に、駅の構内で以前の仕事仲間とバッタリ会った。5年ぶりくらい。
わたしの3年前くらいの行動のいくつかを知っているようで、「○○さんとは、いまも飲んだりしているんですよね?」という問いかけで確認のような話をたくさんされて、わたしの知り得ぬところでどんなふうに時間が止まり、どんな話がされているか、誰が拡散しているのか、という情報が数分の立ち話の間にどっさり入ってきた。でも目の前にいるその本人についての情報は入ってこない。見た感じ元気そうですねと思いながら、自分の噂話をしているという他人の話を聞く。
わたしは返答をしながら、その人がいまも居るという会社の公開情報だけを記憶のなかから選び取り、なんとかとか話をつないだ。この人は「ザ・善良なおじさま」という感じの、とてもあたたかい人。年齢はたぶんわたしより10歳くらい上じゃないかな。


ヨガフェスタへ、今年再会したかつての同僚と行った。ヨガのことはよく知らないザ・ヨガ初心者という感じのOLさんなので、いろいろおもしろい反応が見聞きできた。
彼女は「オーガニックライフTOKYO」でわたしを見つけて声をかけてくれた。年齢は2つくらい、彼女のほうが上と記憶している。15年前くらいに一緒に仕事をしていたので彼女はわたしが20代の頃を知っているのだけど、夕食のときに「うちこちゃんは昔からよくしゃべる印象を与えるのに、口は堅かったよ」と言われてびっくりした。自分では情報開示やそのタイミング・方法にうるさい環境で仕事をしてきたせいだと思っていたのだけど、同業者であった彼女にそう言われるのは、ほかの人に言われるのとはまた違う驚きがあった。根本的な部分での価値観というのは、あまり変わらないものなのだろうか。


ここまであえて年齢や性別を添えてみたけど、これは年齢で区切る話ではないとも思っている。
わたしには何人か、アジアの他国からやってきて日本語を流暢に扱って働く知人がいる。彼らは「ポジティブなつながりの共有」にとても積極的。「どこどこの誰々さんと、この前どこどこで会って話しました。あなたのことを、褒めていました!」というようなことを、パワフルに話す。これはこれで、それだけの価値観で暮らしていけるのであれば精神的にも安定し、幸福な感じがすると思う。彼らに褒められると一時的に孤独感が消え、なにか大きなものに包まれる感覚がある。でもその質には注意が必要だ。だれでも参加できる場で共有された情報と、なんらかの実践を乗り越えたり信頼を共有した者同士の情報は、まったく別のものだから。


わたしは日々、かなり広い範囲で個人差の幅を感じながら、他人とコミュニケーションをとっている。
そして個人主義と関係主義(そんな対比の言葉はないけど)のなかで、よく混乱する。
でもこの「混乱している」という自覚がある状況を、今はけっこう気に入っている。
この状況を楽しむ気持ちがないと「シャルリとは誰か?」なんて難解な本は読了できなかっただろうと思うから。「難解」というのはたぶん、「想像できない価値観を見る覚悟を問われる」ということで、語り口が幼稚園の先生のようであれば「やさしい」というわけではないという現実を見ることでもある。
油断すると日々マイルドすぎる方向へ流れがちな状況というのは、こわいものだ。他人のうわさ話などする隙間もないほど話題の尽きないヨガ友の存在がありがたい。



ヨガクラスの後で冒頭の彼女がわたしの手にしていた封筒(別の受講者さんがくれたもの)を目にして「いいですねそれ。味のある絵」とつぶやいたので、どうぞとさしあげたら、翌朝「封筒で封筒を作りました」とメールが届いた。


ミニサイズになってる。かわいい…。
日常を楽しもうとする感覚のちょっとしたことが、おしゃれ。バランス感覚が絶妙なのだよな…。
たぶん人間関係の情報のコントロールも、日常を楽しむセンスのひとつなのだろう。
彼女を見ていて、そんなことを思った。