うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

光あるうち光の中を歩め トルストイ著・原久一郎(翻訳)


短編小説です。キリスト教版カルマ・ヨーガの教えみたいな物語なのですが、引き込まれて一日で読んでしまいました。
出家した人、出家しそうでなかなかしない人(主人公)、出家を食い止める人の3人の会話で成り立っており、議論のシーンに名言がてんこ盛り。教義を善として読んでも悪として読んでも興味深い内容です。
出家した人は原始キリスト教で、この物語の社会では迫害対象。この友人の言葉になんども意識を引っ張られつつもなかなか出家しない人が主人公。親が、妻子と家庭が、栄誉がと理由をつけながらモヤモヤと生きていく様子は現代のわたしたちそのものでもあるし、出家を食い止める人の論理もなかなか立っている。
出家しそうでなかなかしないユリウスが主人公なのですが、彼の父ユヴェナリウスが傾けた息子への愛情の描写が初頭になにげに書かれていて、構成も巧妙。

 ユヴェナリウスは満身の愛情と心づかいとを、全部このユリウスに傾けつくした、特にユヴェナリウスの望んだのは、自分自身を当惑させたような人生に対するああした懐疑に責めさいなまれずに済むように、ユリウスを教育したいという一事だった。

二度読むと、繰り返す過ちの連鎖の鎖が見えて、沁みるのです。



ユリウスの出家を阻止する人物の言葉も、とても印象的です。

──あんたの体内には情熱が煮えたぎっている。あんたは情熱に興奮させられたり情熱の結果に悩み悶えることのない、静かな波止場を探し求めて、キリスト教徒のただ中に、そうした避難所を見出せるように思っていなさる。しかし若いお方、そんな場所はありやしません、なぜと言って、あんたを不安に駆り立てるものは、キリキヤにもローマにもあるのじゃなくて、あんた自身の内部に存しているのだからね。

(中略)

キリスト教徒の欺瞞や錯誤(わしはあの連中をくさしたくないから、言葉は改めたってかまやせぬが)どこにそれがあるかというと、ほかでもない、彼らが人間の本性を、認めようとしない点にあるのです。

「本性」を問うのが、この小説の本筋になっています。



この物語は、のちにキリスト教徒の裁判が行われることになります。以下は仕事での成功を経て公職につくユリウスのもとに、15歳の頃からの友人で出家したパンフィリウスが使者としてやってくる経緯。この経緯が、さまざまな思考を誘います。

 キリスト教徒は赦免を歎願していなかった。彼らはキリスト教の真理を証明することを、自己の生涯の使命と認めていた。彼らはこのことを、長い八十年の生活をもって証明することもできたし、また同じく殉教によっても証明することができた。そのいずれでも、彼らにとっては同じことだった。また彼らのために避けられない肉体的の死だって、今この瞬間だろうと、五十年たってからだろうと、やはり恐ろしいものでなく、むしろ喜びでさえあったのだ。が、しかしながら、自分たちの一命が世人の利益に役立つことを欲したので、そこで彼らはパンフィリウスを使者に立てて、裁判も死刑も公衆の面前で行われるように、奔走させることとしたのである。

トルストイは、「自分たちの一命が世人の利益に役立つことを欲した」という書き方をするんですよね。この小さくひっかかる感じが網目になって、濃密な短編小説になっている。


なーんとなく挑戦してみようかなーなんて軽い気持ちで手に取ったら、いっきに連れて行かれました。
ガンジーの「獄中からの手紙」バガヴァッド・ギーターの解説書を兼ねているのと同じように、この小説は聖書の解説書を兼ねているように見えました。