うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

二百十日 夏目漱石 著


頭ばかりの人と、体ばかりの人の珍道中。熊本の阿蘇山の話です。
この小説でわたしは「天佑」という言葉を知りました。
インド人は「天佑」という意味で「under control」という英語を使います。これは日本語の天佑ですね。
この小説のなかで「体ばかり」のほうの圭さんは

 意思のあるところには天佑がごろごろとしているものだ

という。


虞美人草」や「行人」もそうだったけど、夏目漱石の小説には意識過多な人と行動過多な人が一緒に自然に向き合うという場面がたまにある。わたしはこの設定がすごく好き。今回読んだ「二百十日」は、行動ばかりの圭さんが、スピリチュアル方面に全力で走りそうになる。その圭さんを意識ばかりの碌さんがたしなめる場面がおもしろい。

「もっとも崇高なる天地間の活力現象に対して、雄大の気象を養って、齷齪(あくそく)たる塵事(じんじ)を超越するんだ」
「あんまり超越し過ぎるとあとで世の中が、いやになって、かえって困るぜ。だからそこのところは好加減に超越して置く事にしようじゃないか。僕の足じゃとうていそうえらく超越出来そうもないよ」
「弱い男だ」

とっちが弱いんだか。と、ニヤニヤしながら読む。ヨガでもありがちな場面。まえに「ある道場で体験初日に破門された人の話」に書いたことと似ている。



作者の世の中に対しての思いを二人に語らせているので、こんな会話もある。圭さんの問いかけから。

「突然、人の頭を張りつけたら?」
「そりゃ気違(きちがい)だろう」
「気狂(きちがい)なら謝まらないでもいいものかな」
「そうさな。謝まらさす事が出来れば、謝まらさす方がいいだろう」
「それを気違の方で謝まれって云うのは驚ろくじゃないか」
「そんな気違があるのかい」
「今の豆腐屋連はみんな、そう云う気違ばかりだよ。人を圧迫した上に、人に頭を下げさせようとするんだぜ。本来なら向が恐れ入るのが人間だろうじゃないか、君」
「無論それが人間さ。しかし気違の豆腐屋なら、うっちゃって置くよりほかに仕方があるまい」
 圭さんは再びふふんと云った。しばらくして、
「そんな気違を増長させるくらいなら、世の中に生れて来ない方がいい」と独り言のようにつけた。

「気違」と「気狂」を書き分けて定義しながら会話に乗せる。日本に長く住んでいるインド人の知人が「日本は凶悪犯罪があると頭がおかしいことにして終わりにしちゃうよね」と言っていたのを思い出す。



全般、話は落語のように軽快に進む。
「ともかくも」が25回も出てくる。この、圭さんの「ともかくも」がおもしろい。

「ともかくも六時に起きて……」
「六時に起きる?」
「六時に起きて、七時半に湯から出て、八時に飯を食って、八時半に便所から出て、そうして宿を出て、十一時に阿蘇神社へ参詣して、十二時から登るのだ」
「へえ、誰が」
「僕と君がさ」

かわいい。どっちも。



かわいいくて、ちょっとせつない。でも軽快なお話でした。



▼ネットで読めます


▼文庫は「草枕」や「野分」とセットで収録されたものが出ています


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