うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「ケーベル先生」「ケーベル先生の告別」 夏目漱石 著


この人物のカルマヨギっぷりが、漱石グルジの回想録で語られています。

私がもし日本を離れる事があるとすれば、永久に離れる。けっして二度とは帰って来ないと云われた。
 先生はこういう風にそれほど故郷を慕う様子もなく、あながち日本を嫌う気色もなく、自分の性格とは容れにくいほどに矛盾な乱雑な空虚にして安っぽいいわゆる新時代の世態が、周囲の過渡層の底からしだいしだいに浮き上って、自分をその中心に陥落せしめねばやまぬ勢を得つつ進むのを、日ごと眼前に目撃しながら、それを別世界に起る風馬牛の現象のごとくよそに見て、極めて落ちついた十八年を吾邦(わがくに)で過ごされた。
(「ケーベル先生」より)

先生の頭の奥に、区々たる場所を超越した世界的の観念が潜んでいればこそ、こんな挨拶もできるのだろう。またこんな挨拶ができればこそ、たいした興味もない日本に二十年もながくいて、不平らしい顔を見せる必要もなかったのだろう。
 場所ばかりではない、時間のうえでも先生の態度はまったく普通の人と違っている。郵船会社の汽船は半分荷物船だから船足がおそいのに、なぜそれをえらんだのかと私が聞いたら、先生はいくら長く海の中に浮いていても苦にはならない、それよりも日本からベルリンまで十五日で行けるとか十四日で着けるとかいって、旅行が一日でも早くできるのを、非常の便利らしく考えている人の心持ちがわからないと言った。
(「ケーベル先生の告別」より)


夏目漱石の中期以降の小説には、こういう超越のしかたをしそうでしない人がキーマンとして登場するものが多い。超越してしまったら突き抜けちゃって小説にならないところを、あえて感情の鎖でつなぎとめて書いているような、そういう感じがする。
学生時代には立体的につかめていなかったケーベル先生の魂が、漱石グルジ自身の熟成とともに言語化されていったかのようにも見え、影響や顕在化というのはゆっくりと花ひらくものであるなぁ、なんてことを思いながら読みました。


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