うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

閉じこもるインターネット グーグル・パーソナライズ・民主主義 イーライ・パリサー 著 / 井口耕二 翻訳


連休ボケしないように、このような本を読んでおりました。
わたしは仕事柄、自分のまったく必要としない、興味のないこともたくさん検索します。なのであまりリアルな自分に寄り切った広告が出てくることはないのですが、たまに「もう明日にでもアジア旅行へ行かなければならんのか!」というくらいしつこいときがある。イッツ、パーソナライズ。
たまに「うちこさんのブログ、ヨガのことを検索すると毎回出てきます」と言う人がいるのですが「それ、わたしの実力じゃない」と言います(笑)。Googleさんが、「あなたはこの人の記事を信用するんでしょ、ほれ」といって出してくれている可能性があるのです。この人はあっさりとした黒糖焼酎が好きだ、と覚えてくれているいつもの居酒屋の店員さんのような機能。なので、「今日は泡盛の気分なんだよね」みたいな感じでいろんなヨガサイトを見たほうがいいですよ。

こういう機能はいっけん便利なようだけど、ここにGoogleさんの広告収益の最大化という視点が絡むと、想像する未来はちと怖い。うちこちゃんはただのヨガオタクだから、どれだけ検索してたどり着いてくれてもいいけど、「あなたの人生をよりよくするために。ヨガの奥義をすでに理解しつつあるあなたへ」なんつって何をすすめてくる人だとしたら…。


ニュースも、そうなんですよね。

<88ページ 第二章 ユーザーがコンテンツ 新たな「中」 より>
 このようにパーソナライゼーションは我々のニュース体験を大きく変えつつあるわけだが、それだけでなく、どのような記事が制作されるのかを決める経済的な側面も変えようとしている。

広告ビジネスでやっているメディアが、どんどん東スポや女性週刊誌のようなトーンの見出しになっていくの法則。瞑想だけであなたの潜在意識が花開き、人生が好転するヨガが増えていくの法則、です。



自然なようでありながら、実はちょっとおだてられているロジックで広告が表示されるというのは、閲覧したニュースのキーワードの蓄積(Google)と入稿されている広告(企業の出稿)の組み合わせの妙によっては、すでに実現できちゃう。

<92ページ 第二章 ユーザーがコンテンツ ビッグボード より>
 今後、重要だが人気のないニュースはどうなるのかとたずねたところ、メディアラボのニコラス・ネグロポンテはにっこりほほえんだ。一方の極には「あなたはとってもすごい。あなたが聞きたいと思うことを語ってあげるね」というへつらいのパーソナライゼーションがある。反対の極には「聞きたかろうが聞きたくなかろうが、君に必要だから教える」という親的なアプローチがある。いま、我々が進んでいるのはへつらいの方だ。

(ほんとうは重要ではないけれど…)このニュースを読むあなたは高感度、このニュースもいかがですか? の仕組み。「アナハタ」を検索したあなたは高感度、このチャクラ・ヒーリングはいかがですか? の仕組み。



さて問題は、そんなことよりも、こんなこと。

<103ページ 第三章 アデラル社会 より>
フィルターバブルは我々が見るものと見ないものをより分ける。そして、レンズと同じように、我々が体験する世界をいつの間にかゆがめてしまう。我々の精神活動と外界関係に干渉する。

フィルターされた事件だけを拾うくらいなら、傍聴へ行くといいですよ。法律の勉強にもなります。


<112ページ 第三章 アデラル社会 絶妙なバランス より>
パーソナライゼーションとは、既知の知識に近い未来だけで環境を構築することだ。

(中略)

 フィルタリグが完全におこなわれた世界では予想外の出来事やつながりという驚きがなく、学びが誘発されにくくなる。このほかにももうひとつ、パーソナライゼーションでだめになる精神的バランスがある。新しいものを受け入れる心と集中のバランス、創造性の源となるバランスだ。

(中略)

パーソナライズドウェブが持つ最大の問題は、そもそも発見モードで過ごす時間が減ってしまうことだろう。

「既知の知識に近い未来」って、ほんとこわいんですよね。オレオレ詐欺の細分化みたいなことが起きてくるんじゃないかと思う。


<158ページ 第四章 自分ループ 事件や冒険 より>
 個人情報をもとにアルゴリズムで分類すると、人間がやるよりもっと差別的になる場合もある。

(中略)

 高校の同級生が支払いにルーズだからという理由で銀行から低く評価されたり、あるいは、ローンを返済しない人たちが好きなものを自分もたまたま好きだったせいで銀行から低く評価されるのは不公平だと思うかもしれない。そのとおりだ。そしれそれこそ、アルゴリズムでデータから推論する論理的手法、つまり帰納法がもつ根本的な問題である。

これが仕組みとしてはいちばんお金になる気がするんですよね。入金がルーズな人には広告が出ない仕組みとかあったら、出稿する側はうれしいと思うんです。だからこそ、こわい。
Facebookに広告を出すことは、いまの時点では年齢・性別・居住地などの属性、検索ワード以外は「知人の影響で行動を検討する人」くらいの想定なのだろうけど、そのうち「陰謀論の記事にいいね! を押す傾向がある人」に、「他人のせいにして溜飲を下げることができる気持ちよさを提供する新興宗教グループ」が広告を出したりできるようになる。



やっぱりそうだよね、ということがたくさん書いてある本です。
インターネットは、利用者側がどんどん裏切っていくような使い方をしないと、オリジナルの知的好奇心が発動しなくなったらクリック奴隷化される。
子供のころ「月がずっと追いかけてくる」と思ったことがあるのだけど、インターネットはその感じと似ている。
こういうことを考えるとき、インターネットのない時代から小説の中に「○○な読者諸君なら、もうお気づきのことでしょう」というフレーズを入れていた江戸川乱歩っておもしろいなぁ、と思う。でもいまはただ検索して見ただけの人に「○○の価値がわかるあなたなら、もうお気づきのことでしょう」なんて広告が出てくる時代。人間が後退してる!