うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

さよならインターネット まもなく消えるその「輪郭」について 家入一真 著


うなずきながらイッキ読みしました。
わたしはわりと早くからインターネットを利用してきたので、うんうんそうであったと思いながら読んだのですが、ヨガで知り合う人から相談を受けると「ああそうか。この人はインターネットが水道のようにある感覚なのだ」と感じることがあります。この本もそのような経験談から始まっていました。
わたしの周囲にはいまだに「ヨガをやってみたい人は、この世にたくさんいる」と思っている人がいて、その前提で質問をされます。そして指導者養成講座で資格を取ってわたしにインターネット活用のコツを教わればヨガクラスができると考えているようです。でもわたしの感覚として、それはあまりにも現実から乖離しています。
その感覚を「まさにこれ」という感じで書かれている箇所がありました。

 最近、広告業を手がける人から「今は消費者という人などいないという前提でクリエイティブをしている」と聞いて、すごく合点がいきました。表現者たちは、聴いてくれる人や見てくれる人など、消費者がいるという前提に立って、相手を想像しながら、表現し続けてきました。でもこれから先は、それを受け取ってくれる相手が本当にいるのか、もしくは育っているのか、ということまで、発信する側のほうで真剣に考える必要があるはずです。
(第四章 インターネットは「社会」の何を変えたか / ありふれる表現者と不足する鑑賞者 より)

この本は最終章でいくつか具体的な提案があるのですが、そのなかに「プラットフォーマーになろう」という項目があります。この本は語り口も含めてここへ至るまでの流れがすごくいい。「すでになにかのプラットフォーマーになった経験のある人」と「その経験のない人」では話せることの根本が違うので、そこへ読者を引き上げようとしている。なんて慈悲深い人! と思いながら読みました。



そんなことまで、もう書いてしまいますか。という箇所もありました。

あらゆる世界がつながった昨今、単純に情報などを広げる、伝える、ということだけではなく、見せたくないものを見せない、見たくないものは見ない、という仕組みをどうやって作り出すのか。不要なつながりを、どうすれば切断することができるのか。
(第四章 インターネットは「社会」の何を変えたか / 善意も炎上する より)

なんてサービス精神旺盛な人なのでしょう。



この本のすごいところは、最終章でちゃんと一周してかつてのインターネットへの「希望」と同質のものに還るところ。

 年齢や肩書、信条などを飛び越えて、偶然性に形作られたつながりをどうやって見つけて参加することができるか。それが今後、大事な視点になっていきそうです。
(第六章 ぼくらはインターネットの輪郭を取り戻せるだろうか / 分断された世界の外へ向かおう より)

読み終えたときに、うん、また頑張ろう。という気分になる語り口。

偶然性に形作られたつながりでもそこからグッと深まる関係もあるし、お金を払えばあたりまえに一律一定の機会が得られるものという考えの人には、それなりのものしか用意されない。これはインターネット以前と変わらないことなのだろうけど、「いったん可視化された上での今後」は、やはりまったく手ざわりの違うもの。
世の中をインターネットを通してありありと見るコツのようなものが、とてもマイルドに語られています。


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