さまざまな消費、買い物について書かれているエッセイ。すごくおもしろい。
価格というのは、自分の中の短期的な相対と長期的な相対であれこれ悩むところに、さらに情報としてその業界の相対が入ってきて、それが絶対的に必要かというと必要ではないのに無理やり値段をつけているもの。突き詰めると、空気と水と食べ物と雨風をしのぐ宿と寝床は絶対必要だけど…みたいな感じになる。
この本はその相対と絶対の間で揺れる気持ちを書いているのだけど、「へー。そこ、気になるんだ」と思ったり「あああああ、言語化したことなかったけど、わたしこの判断、してるーーー!」と思うものもある。
このエッセイの中にある、買うことを決めるときの引き金が「自己嫌悪」というケースは、わたしもよくある。
<32ページ 電子辞書 24000円 より>
結局私はけちん坊なのではないか、と思ったのだ。財布を開き24000円出す理由を、血眼になって捜しているのである。24000円以上のことをこの機械がしてくれないのなら、絶対に買いたくないのである。語彙豊富なすばらしい小説や、スムーズに進む異国旅行を、あんたが絶対確約してくれるのねと、このちっこい機械に向かって問うているのである。なんてみみっちい人間だろう。
買い物のときに「なんてみみっちい…」と思うこと、あるなぁ。すごく。
<50ページ すべすべクリーム 4500円 より>
「お肌の調子はどうですか」と訊かれると、「どうでしょう?」と私は顔を突き出すのだが、店員はいつも戸惑っている。
そのテがあったか!(笑)。わたしは店員さんに対して「ゼロ点を示してから聞いてくれ」と思ってしまう。気候で肌の調子が変わるので、「普段」と言われると何月からの話なのかを問いたくなる。
以下は、わたしがこの作家さんの小説が好きな理由でもあると思った。
<100ページ 携帯電話 26000円 より>
私たちのたいていは、ものすごくひまな人間だと私は思っている。どんなに仕事が忙しくても、するべきことなんか本当は少なくて、退屈なんだと思っている。今月二十八個の締め切りを抱えて、時間がない、間に合わないと一応言ってみる私も、けれど本質的にはひまなんだと思う。
そうして、私たちはひまというものを何よりもおそれている。ひまで、退屈で、すべきことがない、ということは致命的だ。この場所にいる意味がことごとくなくなる。そのことを私たちはおそれる。
そのおそろしい感じを、携帯電話は忘れさせてくれるのだ。
ものすごく同感。
ちょうどいま平行して夏目漱石の「それから」を再読していて、わたしのなかでリンクした。
↓ここと。(「五の四」より)
代助は、誠吾の始終忙しがっている様子を知っている。又その忙しさの過半は、こう云う会合から出来上がっているという事実も心得ている。そうして、別に厭な顔もせず、一口の不平も零(こぼ)さず、不規則に酒を飲んだり、物を食ったり、女を相手にしたり、していながら、何時見ても疲れた態もなく、噪ぐ気色もなく、物外に平然として、年々肥満してくる技倆(ぎりょう)に敬服している。
誠吾が待合へ這入ったり、料理茶屋へ上ったり、晩餐に出たり、午餐に呼ばれたり、倶楽部に行ったり、新橋に人を送ったり、横浜に人を迎えたり、大磯へ御機嫌伺いに行ったり、朝から晩まで多勢の集まる所へ顔を出して、得意にも見えなければ、失意にも思われない様子は、こう云う生活に慣れ抜いて、海月(くらげ)が海に漂いながら、塩水を辛く感じ得ない様なものだろうと代助は考えている。
「本質的にはひま」なんだけど、それを忘れる方法を習得して、呼吸をするように忙しくしている人が優雅に見える。ということ、あるなぁ。
なにげないエッセイの中に、ギロリとしたものがある。でも読後の印象は「かわいいなぁ」で終わる。
すごくおもしろかった。