うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ひきつりながら読む精神世界 ― 間抜けな宇宙の支配者たち EO 著

ひきつりながら読む精神世界―間抜けな
以前感想を書いた「ゾンビ化する人々 人類には4つの種族がいる」とセットで、ヨガ仲間が貸してくれました。「ゾンビ化する人々」のとき、akiraさんが「この手の本は、紹介しずらいでしょう」とコメントに書いてくださいましたけれども、つい最近ヨガ仲間がメールに書いていた「良薬は口に苦し」という言葉で、なんかチロリン♪ と、すっきりしたんです。
「紹介しずらい」というかですね、まっすぐに、青汁のように


 う〜〜〜ん、まずい!


といいながらも、どれだけ身体にいいか、熱く語らせてもらうようなかんじでいいのかなと。
この本は、そんな本です。(いきなりまとめたよ)

「一般的には感じが悪いであろうね」という語調がタイトルの「ひきつりながら」という部分に反映されていると少し思いましたが、内容についてはいたって「いや、そうなんですよねまったく」というのがうちこの感想スタンスです。
これ言ったら元も子もないんですけど、そうなんですよね。生まれちゃったら、その場その場で与えられたステージで踊るか、なにもしないかしかない。ということを、とことん書いてくれている感じ。
で、曲も聴かず、真剣に踊らない場合について書かれているのが「ゾンビ化する人々」という流れで読みました。


この本の裏には

本書を読み終えてもなお、あなたが寺や神社や教会やその他の寺院に行って「何か」を自分の利益のために拝むとしたら、あなたは回復不可能な妄想の持ち主かあるいは論理的な理解力が皆無の「類人猿」であると言わざるを得ないだろう。

とあります。これも、「自分の利益のために」というところにフォーカスすると、また印象が違ってくる。表面的に読んで食わず嫌いするのは、なんとももったいない。


今日もいくつか引用初回しますが、最初だけ、ページでは後のほうにある内容なのですが、これを先に紹介しておくとその後が読みやすいかなと思うので、ちょっと順序を前に持ってきますね。

<221ページ 荘子 狂想曲/終章 より>
質問しているあなたの、そもそも、あなたのそんな存在そのものが、無価値なものとして紛砕されなければ、断じて静寂などというものは起き得ない。
どこかで、「自分は、なんとかなる。」「少しは生きている価値がある」とほんの僅かにでも思考すれば、その心の騒音のせいで、あなたには静寂も光明も100%不可能だ。


非常に、地球で悟ることが困難な理由は、前記したようにグルと弟子の関係がもう古いということに加えて、徹底的な打撃というものに出会えるチャンスがないことだ。
釈迦の場合であっても、彼は自滅のチャンスを自分で作り出した。
それは彼の探求心が飛び抜けていたためだ。
誰も彼に苦行などはやれと言っていない。それは彼が自分で選んだのだ。


真剣さというものは、真剣さが成熟して悟りに至るわけではない。
真剣なほど、最後に壊れる瞬発力が内在するということだ。
常に、問題はあなただ。
だから、導師の性質や能力や環境のせいにしてはならない。
どこの導師のところに行こうが、そしてまた自分一人でやるのであろうが、けっきょくは、探求心が真剣でなければ、どうにもならない。


本当は、誰一人としてグルなど必要ない。
あなた一人で充分だ。

「常に、問題はあなただ。」「だから、導師の性質や能力や環境のせいにしてはならない。」「あなた一人で充分だ。」
「I を am するのは I だから」とおっしゃるインドの聖人や、そのお弟子さんのポール・ブラントンさんに通じるものがある。ただ、神ということばを用いない。


以下は、ページの順番どおりにいきます。

<45ページ 神の非実在性について 神学者と議論するとこうなってしまう
シリウスのゴロツキ異性人 「地球人とその神」を馬鹿とののしる。
創造者がいかに馬鹿、または馬鹿であったかについて、論理的考察をシリウスの宇宙知性体が語る より>
肉体の正常な機能性、知性と呼ばれる好奇心の維持、霊性と呼ばれる自分を責めたてる機能を生物の義務としてかかえさせられたのが君達であり、単純な宇宙が存続しようとする本能的なあがきの手段である無数の副産物を君達の「文明」と言う。


こうして地球の思考体生物は今ある内部のプログラム(悪くいえば欲望)を維持するためなら何でもやり、なんでも知覚し自分がものすごいこと、あるいは、ちょっとすごいことを出来るんだという妄想と思い込みの維持のために、ありとあらゆるくだらないことをし続けることに快感を知覚する、実に、あわれな生物である。


一方、我々意識体は、維持するものをもたない。
なにもしない。なにも必要とせず、退屈もしない。
自分は何も出来ない『うすのろ』であるという『事実』にいるために、ありとあらゆることを『やらないこと』に、無上の落ち着きを知覚するあわれな生物である。

この本を読んでいると、植物がものすごく立派に感じます。
今日は花粉に反応して一日中調子が悪かったのですが、「ああ、お花さんからずいぶん遠く下等なものに離れてしまった」と思いました。自分の身体と心が、あわれな生物と感じる。

<61ページ 同上章 より>
意識とは何も知らない。
それは全く何もしないまま存在している。
現在君達が自分をどうかさせているところの
知性や思考や情報や経験の記憶や習慣的感情ではなく、
もしもこの意識に君が自己同一化の対象をシフトしてしまったら、
君達は永久に『誰でもない』という体験に落ち着くはずだ。
我々がまず持って、いきるとか活動するとか、学ぶとか発展するという君達の耳に聞こえのいい言葉やその概念を、かたっぱしから踏みつぶして行くのはそのためだ。
それらのことは君達の歴史の中で、TAOと呼ばれる体系や仏教と呼ばれるものの本質の意味するところである。
老子と呼ばれた者が『私は列の一番後ろにいる。したがって、誰も私を押したりできない』と述べたようにである。


我々は宇宙で最低の存在である。故に宇宙の誰からも、何も強制されることはない。
我々は力を持たない。生きる希望も意志もなく我々はただいる。
そしてそれは存在しようとする意志によっているのではなく、ただいる。


我々が我々の意識の存在や発生について、
疑問を持とうが持つまいが、それは『ただいる』
君達が、世界で最も何者でもないであるならば、
君達は『我家』への帰還をたやすいものにするだろう。


だが、もしも君が何者かであろうとしたり、何者かであると思ったり、
何者かでいることを自分自身に自分で強制するならば、
君は永久に君たちの本質でいることは不可能になる。

ラマナ・マハルシ師の教えとTAOの共通性を感じました。


<95ページ 造物主との対話 より>
我々の惑星地球では、貨幣制度があるために、直接的なエネルギーではなく、そのエネルギーと交換出来る保証書が貨幣と呼ばれる。
実際には全体的な食糧供給が減っていても、その貨幣があればなんとかなると馬鹿な思い込み違いをしたりするものだ。
ところが、その思い込み違いのせいで、衣食住になんら関係のない産業でもなんでもいいから、その貨幣という単なる保証書や預金というただのデジタル数値を増加させるために、無数の無駄な産業があるのだ。
さて、そんな本質的に全く無駄な産業の会社を一歩出たら、そして覚めて考えたら、疑問はこうだ。
そもそも、その中にいるときは、意味があると思っているが、はたして、この産業そのものになんの意味があるのか?

貨幣の呼吸に属するカルマ・ヨーガをしているのだなぁ。


<102ページ うっとおしい地球人との生活編 より>
怒りを静めるセラピストは 結局こうなってしまう

こんな話を聞いた。


アメリカで家庭内暴力をやらかす子供のために、
感情をコントロールして、怒りを押えることを教える教師が流行っているが、その『怒りの押えかたを教える教師』が人手不足だと言う。


そりゃそうだろう。
そこで何が起きているかは、馬鹿でも分かるさ。


『このクソガキ!!! 何度同じ呼吸法を教えたら気が済すむんだ!!


このボケが!、ちゃんと、ゆっくり呼吸しなってんだよ!!。


そうすりゃ、怒りはおさまるんだ。



この馬鹿が!!・・』


・・・・と、その教師の息は荒かった・・・・。

これは、名作。


<105ページ 同上章 より>
知性が本当にある者は決して論点を逃さず、落ち着いている。
一方知性のないものは、ただの言葉の刺激だけによって、いとも感情的に動揺し、虚栄心を剥き出しにし、そして侮辱に対しては激しい怒りにつっ走るものである。
(中略)


こんなわけで、世の中には、意見でなく、同意を強制する者ばかりだ。
最初から聞く耳も持たないくせに、ただ体裁上、他人に意見を求める「振り」をする者を相手にしてはならない。

ゾンビ化する人々」も参照されるとよいでしょう。


<107ページ 同上章 より>
「小刻みにケイレンしたようにうなずく者」。
これを見たら、早々にその場を引き上げて家に帰るとよいだろう。


ケイレンしたような小刻みな「うなずき」をする者は、もうとっくにこちらの話など聞いてはいない。彼らは自分の頭の中の世界にどっぷり酔っ払っている。彼らはもう聞いていない。もう彼らは自分の頭の中でしゃべっているだけだ。

これも、「ゾンビ化する人々」に同じことが書いてありました。


<110ページ 人類という猿と荘子が出会うとこうなってしまう {現代編・荘子物語} より>
草を愛するということは、土の中の醜い虫たち、地の中の死体、汚物にも敬意をはらい、雨も晴れも曇りにも敬意をはらい、目に見えぬ根を育てるためには、水や土も共に愛し、何ひとつ自然からえり好みをしてはならない。光や水ばかりでなく、何もかもがその成育を助けあっている。木が天に届こうとするなら、その根は地獄にまで深く落ちる必要もあると言うがごとく、大きくなれば大きな鉢へと移し変えてやるべきだろう。


だが、これらのことは、何もかも自然の中なら、何ひとつ人の「こざかしさ」によらずとも、自然になされることだ。


そして、何よりも大切なことは、自然の中で、死ぬまいとしている草は一本もないという真実だ。自然の中に死を恐れて嫌がるようなものは何ひとつない。
自然はその半分が死ぬということで支えられている。枯れることを拒む花などない。そんなことになったら、自然は草と花だらけとなり、そうすれば、虫だらけとなり、世界はそれを食べる鳥だらけになってしまう。
死ぬことは生きることと同じ大切なものだ。

金子みすゞさんの詩「花のたましい」を想起した。


<116ページ 同上章 より>
だから、黙して、静寂に住み、
死ぬことも、生きることも、馬鹿になりきって、
『ただいて』味わうのが禅の楽しみというもの。
何事も、求める者は本質を逃し、
言うものは、本質を知らず、
実のところ、この世には
知るものすら、いなく、
ただ、『いる』ものがいる。

猪木師匠は禅師でしたか! と思ってしまった。


<129ページ 同上章 より>
知性をもつ存在とは、実は最も宇宙にあっては程度が低く、奴隷的な生き物なのだ。
外面においては自由であるかのように振る舞いつつ、その内面は常に生きる恐怖と死ぬ恐怖の奴隷となっている。常にとるに足らぬ心配から、自分の生命の心配の奴隷となっており、常に内面は心配や怒りや嫉妬や劣等感に支配され、それを一時的に無視する程度で、逃れる事はできないままだ。
そして、常に何かをやっていなくては、落ち着かず、常におのれの楽しみのために他人や他者や万物を巻き込み、また、おのれが苦しむ時にも、他者を巻き込もうとする。それを世俗は助け合いだの心の触れ合いだの、あるいは付き合いなどと言うが、自然界において、助け合う者は何ひとつ存在しない。助けようと思っているものは何ひとつない。
自分のグチをこぼすようなものは誰ひとりいない。
自然の中に、迷う者は誰もいない。それでいて、自然の万物は、均等を保ち、結局は助け合う形におのずとなっている。自然における助け合いのもっとも大きな基本が、実は死を恐怖せずに受け入れる、という事実を君は見る必要があるだろう。

「自然における助け合いのもっとも大きな基本が、実は死を恐怖せずに受け入れる、という事実」。
この本全体を通して語られていること。


<130ページ 同上>
いつの日か、道具を生み出すことがまるで知性の特徴であるかのように思い込んでいるようだが、実のところ、根底にあるのは常に恐怖と苦痛への恐れである。
さて、道具によって、そして食べ物を貯蓄する技術によって、安定した生活が得られるようになったのに、今度は知性は退屈を覚えはじめた。
そのようにして、すべての芸術、論理、哲学、宗教、科学のほとんどが発展したが、事実は発展というよりも、複雑になったり、変化したというだけであって、発展であるかどうかは疑わしいものだ。第一に、発展とは、何に近付くのを、そう呼ぶつもりかね?。


こうした生活必需品以外の事物を生み出した本当の原因も、やはり恐怖と不安なのである。それまた知性ではなく奴隷的な不自由な本能の産物だった。
もともと、生活の安定を図るために使われた知性であるが、一度それが起動し、生まれ出ると、実に知性そのものが独立した生命のようになり、知性体という別のものとして生きはじめるのである。
そうなればそれは肉体がちょうど死を恐れて様々な物を作り出したように、知性そのものが生き残り、活動し続けるという、知性の延命や安定のために、芸術や娯楽やスポーツを生み出したのだ。あげくに、哲学や宗教などを。

「わたしは(僕は)なんで○○をしているのだろう」なんて、大人の思春期を迎えて悶々としているお友達には、迷わず「淋しいからよ」と答えることにします。自分自身へも。ほんとそうなんだよなぁ。


<163ページ 筆者の独り言 筆者が淡々と身の上話をするとこうなてしまう より>
やめられない、『終息しない活動自体』を『輪廻』と言うのだ。


しかし、その活動そのものが、なければならない理由は、この宇宙は答えてはくれない。


かくして我々は
なんの正当な根拠も、理由も、真理もないまま、ただ生存し、ただ生き、残念ながら、魂は消えられず、存在を強要されている。

「存在を強要されているから、生かされているから、いろいろなことを区別して邪気を持つよりは、きっぱりあきらめて、自己ヌキで働いてしまおう!」というのが「カルマ・ヨーガ」と勝手に思っているのですが、やっぱりそれでいい気がする。会社へ行くのが楽しくなるでしょ。


<186ページ 人類を使った苦痛生産システム EOイズムにおける宇宙論の概要。すなわち宇宙の「こやし」としての人類についての話はこうなった より>
あなたは自由である。
そして自由であるが故に孤独である。
そして完全にあなたは、拘束もされている。
すなわち、生き続けろという生物学的命令の奴隷として。

きっぱり。


<193ページ ルーシュの定義 より>
淋しさは自我を前提に発達するとすると、では自我は何によって発達するか? となる。それは意識への圧力の強さである。


1/極端に知覚が敏感な肉体を持つと、外部と自己の「境界」を意識する。
2/外側の敵に対して緊張し続けることが発生する。
3/他人や外界との誤差の認識が発生する。
4/動くことによる肉体の体感的実感が発生する。
5/これらにより自分が外部とは仕切られたひとつの個体存在であると認識される。


(中略)


個体意識のない生物ほど自己保存意思が希薄であるが、個体性を強く自覚すればするほど、そう簡単に、分解したくないという意思が発生する。


(中略)


ルーシュというのは、淋しさそのものではなく、淋しさが「原動力」になって、なんらかの葛藤の『動き』を生むことに利用価値がある。

この1〜5の分解がいい。なんと明快な。


<195ページ ルーシュの定義 より>
精神や心とか、思考とか記憶、霊性、あるいは発想性、オリジナリティー、価値観、霊的な別の次元の探求趣味、冒険の刺激、おもしろさ、娯楽性などなど、ずいぶんと、ごたいそうな名前がつけられたものが地球にも、そして宇宙中にまで蔓延していますが、なんのことはない。
どこの高次元でも、それらはただ動くための同期と刺激になり得るものであるにすぎない。

調味料ね。


<199ページ 作物への後退 より>
我々が自分で称賛してきた脳や、人間が他の動物と違うと自負してきたと思考力とは、結局、いかなるものであったのか?。
それは単なるトラブルメーカーにすぎない面が多々あるのだ。
何かを作る、加工する、量産する、こういうことは必ず中毒し、エスカレートする。
動物たちは適度なところで欲望が終わる。
しかし人間の欲望は、食事だけに止まらない。
実のところ人間と他の動物の違いとは思考力の違いでもなければ脳のせいでもない。
腹が減って空腹を感じる器官を、腹部以外にあちこちつけられた不幸な生物なのだ。
動物がとうぜん満足していられる状況下にあって、人間は、
すべてをエスカレートさせないと不満になりはじめる。

イノベーション……、イノベーション……、というマントラの魔力。あれはもはや呪術。


<201ページ 作物への後退 より>
動けば、怪我もするし苦痛も増える。
動くためには神経も発達させねばならない。
外敵の感知能力も上げなければならない。
植物ならじっと吸収していればよかった養分なのに、
動物になったら、いちいち毎日働いて捕獲しなければならない。



結局は、何が増すかと言えば、緊張が増すのだ。



結局のところ、可動性生物になったメリットとはなんなのか?。
なにもない。葛藤と苦がどんどん増えるわけだ。
進化系列と勝手に人が呼んだもので、上位に位置する生物は、一言に言えばそれだけ下の生物よりも苦しみ、葛藤する機能性に優れている、ということだ。

緊張したら、弛緩を学ぼう。ヨガで学ぼう。(強引?)



ほんとめちゃくちゃ面白い本でした。アマゾンではえらい高値になっているのですが、「まんだらけ」へ行ったら買えるかもしれません。

■参考リンク
著者紹介 無明庵 エオ
本書紹介サイト
ここで手に入るみたい