昨日1〜9章までをご紹介した「秘められたインド」の後半を紹介します。
この本には、旅の前半と後半の2度登場する人が二人います。ひとりが、「メーヘル・バーバー」、もうひとりが「ラマナ・マハルシ」。この本は「インド人の哲学的な生き方のうさんくささと、すごさ」を旅を通してものすごい深さで追っていく内容なのですが、この二人がその象徴的な人物として描かれています。
そして後半は10章から紹介しますが、ここで区切ってみた理由にはラマナ師登場の次の章というだけでなく、この章に「あるヨギの自叙伝」にも登場するマスター・マハーシャヤ(あるヨギ〜 での記載はマスター・マハサヤ/宇宙の母と愛を語らう至福の聖者)こと、M.マヘンドラナート・グプタさんが登場する。ひとつの大きな流れがある章だからです。そして面白いのは、このマスター・マハーシャヤに出会う前に、インドでありがちな「うさんくさい魔術師」たちがどしどし登場する。ヨガに対してありがちな、トリッキーなエピソードのオンパレード。これを読むとき、この時代はいわゆる「西洋への"グル輸出時代"」のまえぶれであることを念頭に置いておいてください。
ではでは10章〜最後まで、印象に残った箇所を紹介します。(■はその章の登場人物)
●第十章 魔法使いたちと修行者たちの間で
■マスター・マハーシャヤ(M.マヘンドラナート・グプタの敬称。ラーマクリシュナの直弟子)
■ドクター・バンディヨパーディヤ(外科医)
■ナラシンガ・スワミ(魔法使い系のヨギ。ガラス粉とか飲んじゃうような)
<173ページ より ありがちなヨガ秘伝の売り込み場面>
「もしサヒブ(あなた)が百ルピー下さるなら、ヨギはすべてをお話する、と約束しています」
「いや! 七ルピーだ。それがいやなら、かれは秘密を守がよい。来たまえ!(来たまえ! は、案内者への指示)」
再び、われわれは歩きはじめる。間もなく次の叫び声。われわれは戻る。
「ヨギは、その七ルピーをいただく、と言います」そして説明がはじまる。
わたしは30メートルくらい歩く間にガネーシャさんが1/5くらいのお値段に急降下していくのを笑顔で流したことがあるのですが、ヨギの秘伝にも同じ手法が!(笑)
<174ページ より ありがちな魔術の売り込み>
「かれは、ファキールの魔法、見せたい、ご主人様」
「けっこうだ。ではやらせるがよい。金は幾ら欲しいと言うのか」
「ご主人様、くれるだけ、と言います」
この直訳っぽい感じがかえっておもしろい。
<183ページ より ありがちな"知識"の売り込み>
(売り込む人に対する著者の問いかけから)
「あなたは体そう聞きたがりやですね。欲しいのはお布施ですか」
「私はお金が欲しくて来たのではありません」と、かれはゆっくり答える、「私がほんとうに欲しているのは、もしできたら、と希っているのは、書物をいただくことです。私は、それはそれは本が好きなのです」
「よろしい、本を上げましょう。私が小屋(バンガロウ)に帰るときについていらっしゃい。面白くない、古代な、ヴィクトリヤ朝初期の何かを見つけて上げましょう。きっとあなたのお気に入るに違いない」
「あつく御礼を申し上げます」
「ちょっとお待ちなさい。本を差し上げる前にあなたいお尋ねしたいことがある。あなたのお荷物の中の、もう一冊の本は何ですか」
「ああ! これは実につまらない本です」
「多分そうでしょう。しかし私はその題名が知りたいのです」
「それは全く申し上げる価値のないものでして」
「あなたはやはり、私が約束した書物は欲しいのでしょう?」
男はちょっとあわてる。
「ぜひ欲しいのです。そんなにおっしゃるなら申し上げなければなりません。『拝金主義と唯物主義』という題です。インドの評論家による西洋の研究です」
私はギョッとしたようなふりをする。
「ホウ! ではこういうものを研究していらっしゃるのですね?」
「これは町のある商人が私にくれたのです」と、かれは弱い、弁解するような態度で説明する。
(中略)
「では話して下さい ── あなたはその『拝金主義』という本に賛成なさいますか」と私は尋ねる。
「ほんの少し、ほんの少しばかり! いつかは西洋に旅をしたいというのが私の望みです。そのときには、自分の眼で(労働者階級と金持ちが一緒に住む、新しい地獄として描かれているヨーロッパとアメリカを)たしかめるでしょう」
「そして、そこで何をするのですか」
「人々の心の闇を光に変える講演をしましょう。私は我が国の偉大なスワミ・ヴィヴェーカーナンダと同じことをしたいのです。かれはあなた方の国の大きな都会で、実に魅力的な演説をしました。哀しいかな、かれは若くて死にました。何という黄金の舌が、かれと共に死んだことか!」「まあ、あなたは一風変わった修道者ですねえ」と私は言う。
ここは面白かったのでちょっと引用が長くなりましたが、こう、見栄っ張りというか、権威好きというか、そういう特徴がよく出てる…。
<186ページ より>
この問題はインドにとって他の方面で重要である。経済上の悩みが、ある種の再評価を強要しているのだ。修道者は国の中で経済的な働きをしていない。無知無教育の人間である自称スワミたちが村々を放浪し、ある都会の定期の祭礼に加わる。彼らは子供たちに対してはオバケになり、大人たちにとってはしつこい乞食である。彼らは社会の重荷だ。受けるものに対して何の返礼もしないのだから。しかし中には出て行って神を見出すためによき地位をすてたり、財産を人に与えてしまったりした本当に高貴な人たちもいる。
(中略)
結局言えることは、相手はくだらない詐欺師であるか高徳の遍歴者であるか、人がもしかれの真の価値を正しく見分けようと思ったら、その宗教的な外皮をはぎ取らなければならない、ということだ。
最後の行が、いいでしょ。この部分だけで1トピック書けそうなくらいですが、なんたってこの本は濃いエスプレッソをマグカップで出されたような分量。どんどんいきます。
以下からは、おまっとさん! マスター・マハーシャヤ師、登場です。
<191ページ より マスター・マハーシャヤがラーマクリシュナについて語る場面>
ある日、師は私に言いました──
「(中略)与えられた仕事は全部行なえ。しかし心は常に神を思うようにせよ。妻、子供たち、両親、彼ら全てと共に暮らし、まるで彼らがお前のものであるかのように、彼らに仕えるがよい。カメは湖水の中を泳ぎまわるが、彼女の心は常に、自分が卵を産んでおいた岸辺のこと
を思っている。そのように、世間の務めを全部果たしながら、心は常に神におくようにせよ」と。
「まるで彼らがお前のものであるかのように、彼らに仕えるがよい」。沖先生の表現を借りると、「奉仕させていただく」の文体。このカメの例えも、いいよねぇ。
<193ページ より マスター・マハーシャヤについて著者の語る部分>
かれを包む雰囲気は優しく美しく、静かでそして愛にみちている。かれはある内なる至福を見出しており、それから出る放射線がはっきりと感ぜられるのだ。しばしば、私はかれの言葉を忘れるが、かれの慈悲深い人柄を忘れることはできない。かれをくり返しくり返しラーマクリシュナに惹きつけたそのものが、私をマハーシャヤに惹きつけているのだろう。
この著者さんは全般、聖者さんから感じるものについて「認める」形で明記するところがとても少ないので、印象に残りました。
●第十一章 ベナレスの奇跡行者
■ヴィシュッダーナンダ(香りの魔術をするヨギ)
■パンディット・カヴィルジ(ヴィシュッダーナンダの通訳で公立サンスクリット大学の学長)
著者が西部インドで、ヴィシュッダーナンダという70歳の老人に合う章。死んだ鳥を蘇生させたり、香りを作り出したりもするヨギ。
筆者のスタンスはあくまでニュートラルで、チベットから伝わる「太陽の科学」であると語るヴィシュッダーナンダの話も、以下のように語る。
<212ページ より>
もし太陽光線の集中は単なる目隠しにすぎなかったとすれば、ヴィシュッダーナンダは本当はどんな方法をとったのだろうか。芳香を生み出すのは個人の努力によって開発されるもう一つのヨガの力である、ということなのだろうが、私は知らない。それでも、私はかれの技を説明する筋道の通った理論を提供することはできないが、それだからと言ってかれの提出する太陽科学の説にとびつく必要はないだろう。これ以上は頭を悩ます必要もあるまい。私の務めは記録者として起こった事実を書きとめることだ。説明できないことを説明することではない。
ここに、秘せられたまますぎるであろうインドの生活の一面がある。
ちょっと量子力学的なお話です。
ちなみにこのヴィシュッダーナンダさんは、とてもオーソドックスな(いい意味で)ヨギです。以下は、そんなやりとりの場面から。
<210ページ より>
ヴィシュッダーナンダは私もすでによく知っている蓮華の坐法を見せてくれる。両脚を内側に曲げて組むこの坐法をなぜ簡単なと言うのか、私には分からない。
「こんなひねったすわ方は、おとなのヨーロッパ人にはとてもできません!」と私は叫ぶ。
「難しいのは最初だけです。毎日朝夕実行していればやさしくなります。大切なのは、このヨガの修行のためには正確な時間を定め、これを厳重に守ることです。最初は五分努力したら充分です一ヶ月経ったら、それを十分に延ばしてよろしい。三ヶ月後には二十分間に、という風にするのです。背骨もまっすぐにするようにお気をつけなさい。この修行は人に身体の安定と心の落着きとを得させます。落着きはヨガの修行を進めて行くのに不可欠のものです」
「では、あなたは肉体制御のヨガをお教えになるのですね」
「そうです。心の制御のヨガの方が優れているなどと想像してはなりません。まさにあらゆる人間が考え、そして行動するように、われわれの性質の両方の面の訓練がなければなりません。身体は心にはたらきかけ、同時に心は身体に作用するのです。それらは現実の発展の中で分けられることはできません」
ヨギ的には「結跏趺坐への西洋人のオーソドックスな反応」を著者さんがされているのが面白かったりしますが、このヴィシュッダーナンダさんも前半に登場したブラマーさん同様、実践ヨギとして模範的な説明をしてくださる。
●第十二章 星に書いてある!
■ジュディ・バブ(「ベナレスで最も優れた占星家といわれる人」と言われる人として登場。わかるかなこのニュアンス^^)
筆者がことごとくのことを言い当てられ、その後も「かれの予言の一つで、当時私が到底不可能ととり上げなかったことが今は完全に的中した」と語るエピソードの後、このジュディさんから「ブラマー・チンタのヨガ」という空想的な教えを学ぶ章。
その説明のなかから一ヶ所、ご紹介します。
<229ページ より>
「神聖なトランスは実に偉大なもので、人がその中にある間は死もかれを捕えることはできません。ヒマラヤのチベット側には、このブラマー・チンタの道を完全に体得した何人かのヨギがいます。彼らは自分たちの好みで山奥の洞穴に隠れすみ、そこで最も深遠なトランスに入っています。その状態では脈搏はとまり、心臓も動かず血液も流れません。見た人は彼らは死んだと思うでしょう。眠っているのだなどと想像してはいけません。彼らはあなたや私と同様、完全にめざめているのです。内なる世界に入り、そこでもっと高い生活をしているのです。心は肉体の束縛を脱し、彼らは全宇宙を自己の内に見ています。いつか、そのトランスから出て来るでしょうが、そのときには数百歳になっているでしょう!」
調べたら、「チンタ=如意」という意味だそうです。セルフ・コントロール術なのでしょう。
そしてこの話をするジュディさんは、妻に捨てられて占星術師になった人であったり、いつもご飯を運ぶ女が病気をしている間、他の身分の者の運んだものは口にしないと言って「見た目が真っ青」だったりするのですが、ひとつ、すてきなことを言っている箇所がありました。
<232ページ より 筆者との問答から抜粋>
「ではあなたは神は遠い存在だとはお思いにならない」
「いいえ。神は人々とこの宇宙全体の内に隠れていらっしゃる霊です。もし、美しい風景のような自然の美を見たら、風景そのものを崇拝せず、それは内に在す神のお陰で美しいのだということをお思いなさい。対象物や人々の中に神を見、それらに生命を与えている内在の霊を忘れるほど外形に心を奪われないようになさい」
ここすごく、グッときました。感謝する技術でありながら、褒める技術でもある。
●第十三章 主の庭園
■ラーダー・ソアミス(秘密の団体のメンバー)
■マリク(秘密の団体のメンバー)
■サハブジ・マハラージ(その団体のリーダ)
とてもすがすがしいエピソードの章。著者が旅のガイドであるスンデルラル・ニガームという青年の機敏な発言、現実的な事柄に対する態度にヨガ行者の深さと神秘性を感じるところからはじまり、かれの所属する団体(「ダフルバグ」というアグラの近くにあるコロニー)接していくお話。
そのすがすがしさは、この団体の長であるサハブジ・マハラージの言葉の引用だけで十分。
<239ページ 筆者とサハブジ・マハラージの会話より>
「全体として、多くのインド人が、完全に自分でできるはずのことを神にさせようとしているように見えます」
「まさにその通りです。われわれヒンドゥは、宗教と何の関係もない多くの事柄をおおい隠すためにベラベラと宗教を談じます。困ったことには、最初の五十年くらいは宗教も純粋で活力がありますが、そのあとは単なる哲学に堕落してしまい、信奉者は宗教的に生きた人間ではなく、しやべり屋になります。ついにはそれは長い間偽善的な聖職者の手に落ち、最後には、偽善が宗教として認められるようになるのです」
私はこのような承認にアッとおどろく。
「天国と地獄だとかいうものについて議論したとて何になりますか。人類は物質の段階の上に自分を見出しているのです。この段階の事柄をおろそかにしてはなりません。われわれはここでの自分たちの生活をもっと美しく幸福にするよう、努力しようではありませんか」とかれは結ぶ。
この人、すごい…。と感動。この本の中でもっとも知的な会話かも。
●第十四章 パーシー教の救世主の本部で
■メーヘル・バーバー(第四章のあと、再登場)
著者がはじめに出会ったときに感じたことを、確信として語り直す章です。著者の言葉は、神秘とグルがセットで輸出されまくった時代への警告。その表現の中で共感したところを抜粋します。
<272ページ より>
言葉は奇跡を行うことはできない。かれの軽率な予言は当たっても当たらなくてもよい。問題は、この予言者が自分をイエスやブッダのような人物と同列におくということだ。
(中略)
東洋全体に、ここ幾百年の歴史上最大のものとされるはずの大きなでき事がある、というほのめかしが繰り返されてきた。キリストの再臨の予言は、インドの褐色の顔の間に、チベットのずんぐりとした人々の間に、扁桃状の眼を持つシナの大衆の間に、またアフリカの白いあごひげの老人たちの間に、頭をもたげている。
(中略)
メーヘル・バーバーが使ったような方法は、宗教の歴史について十分な知識を持つ者たちにはいやらしい感じがする。それらは理性も、直感も、霊性のエチケットも満足させない。私は、このような派手な「聖者」の将来の活動がどのような形をとるかということについては鋭い疑いの念を抱いている。しかし、世の娯楽として、この筆者よりは、時がそれらをよく現すであろう。
「認めない」ことも明記することが少ない本なので、ここも印象的。「宗教の歴史について十分な知識を持つ者たちにはいやらしい感じがする」という表現に好感を持ちました。
●第十五章 不思議な遭遇
■チャンディ・ダース(ヨギ。弟子は彼を「比類のない能力を持つ」という)
<277ページ より チャンディ・ダースというヨギと筆者の会話>
「長い旅をして来られたのでしょうね?」とかれは静かにきく。
私はうなづく。
「マスター・マハーシャヤ(「ラーマクリシュナの福音」の著者)をどう思いますか」とかれは突然尋ねる。
私はびっくりする。どのようにして、かれは私がかれの故郷ベンガルにゆき、カルカッタでマスター・マハーシャヤに会ったことを知っているのだろう。
(中略)
「(著者)私はまたカルカッタに行ったとき、もう一度かれに会うのを楽しみにしています。かれはあなたを知っているのですか。あなたからもよろしく、と言いましょうか」
ヨギは断乎として首をふる。
「あなたは、マハーシャヤにはもう会えません。まさにいま、死の神ヤマがかれの魂に呼びかけているのです」
Wiki(マヘーンドラナート・グプター)によると、彼の没年は1932年。この本が帰国後1年程度で出版されているのだとしたら、予言です。
その後、著者はこのヨギの助言を参考に、旅の出発点に戻ろうとするが、「ここインドで会った人々の中に、お前が師とするに足る人は一人もいない、ということは確かか?」という心の声をきき、再びマハルシの元へ向かいます。
●第十六章 密林の草庵にて
■ラマナ・マハルシ
<305ページ より>
ときどき、私は、どんなに迷惑な命令でもかれが出しさえすれば、自分は躊躇せずに従ってしまうだろう、と思うほどに強く、かれのこの力を感じるときがある。しかし、マハーリシーは、自分の信者たちに奴隷的な屈従を強いないという点では世界最高の人であって、各人に最大の行動の自由を許しているのである。この点では、かれは、私がインドで今までに会った教師やヨギたちの大部分とは大きく異なっていて気持がよい。
私の瞑想は、最初の訪問のときにかれが指示した教えに従っている。そのとき私は、かれの返事の多くが漠然としているのにイライラしたのである。私は、私自身を見つめはじめている。
私は誰であるか。
私は肉と骨とから成るこの肉体であるか。
私は、私とほかのすべての人から区別する心、思いおよび感情であるか。
「私は、私自身を見つめはじめている」と語るクライマックス。最後の行が印象的。
●第十七章 忘れられた真理の一覧表
■ラミヤー(まだ40歳を超えていない若手ヨギ マハルシの弟子)
<323ページ より>
世間は、この世で最も優れた思想、を求めて古代の予言者たちを仰ぎ、この世で最も高貴な道徳、を求めてほこりだらけの諸々の時代の前にぺこぺこおじぎをする。しかし、人が星のように輝くかれ自身の本性の尊厳なる啓示を受けたとき、かれは圧倒される。今や、思いと感情の中で価値あるものはことごとく、求めないでもかれの足下にやって来る。かれの心の世を隔絶した静寂の中に、神聖なヴィジョンが生まれる。彼らの民族にはその祖先が神であることを教えた、ヘブライやアラビヤの予言者たちが見たヴィジョンに劣らず神聖なヴィジョンである。これと同じ輝かしい光によってブッダはニルヴァーナの真理を悟り、これを人々に伝えた。そしてこの悟りがよびさます愛は、マリヤ・マグダレーナをして前非を悔いてイエスの足下に泣き伏させたほど、すべてのものを抱擁する愛なのである。
著者さんがまとめる「インド」。
長々と書いて来ましたが、インドから戻ってこの本を読んで、紹介するまでに3ヶ月。そして今日ここで書きながら、多くのすばらしい教えと「インドって、なー!」という、なんとも言葉で言い表せないことが、引用紹介を通じて少しでもみなさんに伝わったらいいな、と思います。
いまはこの段取りを経て指導者になるとかメソッド化されたヨガの学び方もたくさん用意されているけれど、ヨガを通じて本当にありがたい教えであるな、とうちこが感じるのは、この本で引用した「ラーマクリシュナ」さんの言葉や沖先生の言葉にあるような「あたりまえの日常のなかで、すべてを生かす教え」であるなぁ、とあらためて感じました。
「ヨガ自体が仕事(目的)なのではない。ヨガのいいことは、昔の暇なインド人が考えてくれた。私たちは現代に生きて、忙しい。いいから、とにかくやればいい。やるか死ぬかネ」(これはわたしの訳)というのが、身近なインド人の口癖のまとめなのですが(笑。ざっくり)、「昔の暇なインド人」の教えは、やっぱりありがたいです。あと、インド人の行動も、やっぱり面白い。