うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ふたご母戦記 村井理子 著

子育てを経験していないのに子育てエッセイに夢中です。

著者の村井さんは子育てに介護に仕事に大車輪の日常のなかで、つらい現実のなかに見逃せない要素を見つけ出し、それを記憶していらっしゃる。

読んでいると、ときどき奇跡のような演目(?)に出会います。

ジーンとしながら爆笑してしまう。いやこれ、この展開からそうきちゃうのと思うような段落がいくつもあって、わたしは子供を研究し尽くして作られたカレーの話のところで腹筋がナナメに割れました。

 

 

かといって、いわゆる「のほほん脱力エッセイ」かというと、そんなことはなく、むしろキレッキレです。そこに怒りや湿度があったものを、なかったことにしません。

人間を複雑なものとして扱っていて、自分はこんなディスリスペクトを受け取った気がしていたんだぜあの頃は。実際そうだっただろ? というパンチがしっかり効いている。苦労話だけど絶対に演歌にならないリズムとスピード感でどんどん展開されます。

 

 

 

息子さんたちへの対応の難しさを描く場面でも、我が子らの面倒くささはかつての自分のそれでもあるけれど、まあそれにしてもウザい!!! という視点がなんとも正直。

新しい環境に入って行く若者の自意識(みんなが俺を見ている、俺だけ目立っている)に対応しなければならない私が、どれだけ神経を削ったか。合掌。

(高校受験の何が大変だったのか より)

この「合掌」の破壊力w

わたしはこの部分を読みながら、社名を添えて全世界へ向けて発信される、知らない人の退職エントリーブログを見たときに感じる薄ら寒さを思い出しました。

 

そしてわたしも10代の頃、親にこういう神経の削らせ方をさせてしまい、そのときに言われたことも覚えています。この本の「自分が常に支える立場であることの苦しさ」という章に「毒親と呼ばれる未来がやってくるのか」というトピックがあって、もうなんというか、なにこの連鎖。

 

 

30代の女性が社会のなかで居場所を探すうちに失ってしまう、生きていく上で大切なマインドの振り返りには、認めたくないくらいのリアリティがありました。

自己犠牲を静かに更新し続ける生活のなかで自分の中にある光を絶やさない、そんな神的なバランス力を保ちながら30代を乗り切ることができた人って、何割くらいいるのだろう。

 今にして思うと、大丈夫かな?という気持ちになる。人生について、命について、一から考え直した方がいいのではないか。当時の私の頭の中を是非覗いてみたい。たぶん、空っぽだ。そのあと、地獄が待っていることもわからなかったんだねと、五十歳をすぎた今の私は、三十五歳の私を温かい目で見守りたい心境になっている。本当に可哀想な子。

(出産・育児で仕事を失いたくない より)

同意したくないけど同意しちゃう、このせつなさよ。「大丈夫かな?」と突き放したように聞こえる言葉を過去の自分へ向ける、この悲しさよ。

この感じを言語化するのはむずかしいし、村井さんのように「本当に可哀想な子」と自分に言うのはしんどいこと。よく書くなぁ。やっぱりすごいや。

 

 

── というような内容もありつつ、それでも全般、読んでいて苦しくないのだから、いま時代に選ばれている人という感じがします。この短期間に、エッセイがいろんな出版社から何冊も出版されています。そうだよね。この人の言葉、読みたいもん。片っ端から読みたくなるもん。

 

ここ数年、どんな立場で書いても状況を明かしても「こっちの領土に住む人の気持ちがわからないのか」と、ご丁寧にお気持ちの槍が飛んでくる社会になってから、リアルタイムで出版されたエッセイはどれもつまらないと思っていました。

だけどこの人のエッセイは読みたい。圧倒的にリアルタイムで読みたい。

 

 

自らをインターネット老人会員と名乗る著者が、息子さんから「動く文字は読めるけど、止まっている文字には興味がない」と言われて驚いた話を含む『インターネット問題に疲れました』の章は、いま30代~50代でネットをがっつり利用しながら仕事を得てきた人、みんな読んでー! と言い切れるおもしろさです。

ベースにある時代の分析力に圧倒的なものがあ理、これを育児カテゴリのエッセイに入れるのは対象範囲が狭すぎる気がします。

こういうときに「全米が泣いた」みたいに使える言葉って、ないもんだろうか。

「全日本の中年が泣くし、笑う」と言っても過言じゃないと思うくらい、おもしろい本でした。