うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

硝子戸の中 夏目漱石 著


ショート・エッセイ集。なにかの本か新聞に載せる写真を撮る人が来たり、たずねてきた人との面談、あつかましいファンへの対応など、まずコンテンツがべらぼうにおもしろい。そして、文章がおもしろい。ものすごく丁寧に書かれた日記を読んでいるようで、引き込まれているうちに読み終えてしまいます。いまでいうと「ブログっぽい」感じです。

飼い猫の話も28話に出てきて、

ある人が私の家の猫を見て、「これは何代目の猫ですか」と訊いた時、私は何気なく「二代目です」と答えたが、あとで考えると、二代目はもう通り越して、その実三代目になっていた。
 初代は宿なしであったにかかわらず、ある意味からして、だいぶ有名になったが、それに引きかえて、二代目の生涯は、主人にさえ忘れられるくらい、短命だった。

一代目はあの猫さんで、二代目は家の誰かに踏んづけられて死んでしまったのだそう。



6&7話は、深く印象に残る。
大作家先生・漱石のもとに女性がたずねてきて、「聴いている私を息苦しくしたくらいに悲痛を極めたものであった。」という身の上話をし、死ぬことを考えていることを匂わす。そんな女性ファンとの対話の話。彼女が帰るところからが、なんだか沁みる。

その時美くしい月が静かな夜を残る隈なく照らしていた。往来へ出ると、ひっそりした土の上にひびく下駄の音はまるで聞こえなかった。私は懐手をしたまま帽子も被らずに、女の後に跟(つ)いて行った。曲り角の所で女はちょっと会釈して、「先生に送っていただいてはもったいのうございます」と云った。「もったいない訳がありません。同じ人間です」と私は答えた。
 次の曲り角へ来たとき女は「先生に送っていただくのは光栄でございます」とまた云った。私は「本当に光栄と思いますか」と真面目に尋ねた。女は簡単に「思います」とはっきり答えた。私は「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と云った。私は女がこの言葉をどう解釈したか知らない。私はそれから一丁ばかり行って、また宅の方へ引き返したのである。

生きる気になった瞬間にキュン死してしまうわ!



9話の、旧友に再会する場面も、なんかときめく。「あまり多くの朋友を持たなかった」と自分で書いた後に、数少ない友人が訪ねてくる場面。

 去年上京したついでに久しぶりで私を訪ねてくれた時、取次のものから名刺を受取った私は、すぐその足で座敷へ行って、いつもの通り客より先に席に着いていた。すると廊下伝いに室の入口まで来た彼は、座蒲団の上にきちんと坐っている私の姿を見るや否や、「いやに澄ましているな」と云った。
 その時向(むこう)の言葉が終るか終らないうちに「うん」という返事がいつか私の口を滑って出てしまった。どうして私の悪口を自分で肯定するようなこの挨拶が、それほど自然に、それほど雑作なく、それほど拘泥わらずに、するすると私の咽喉を滑べり越したものだろうか。私はその時透明な好い心持がした。

わたしもあまり人に心を開けない。仲良くなっても、だいたい頼まれごとをきっかけに離れる。なのでここは、泣きそうな気分になった。



29話には、自分の両親が老齢過ぎて親だと思っていなかったという話が出てくる。これは「坊つちゃん」を読んだことのある人なら、胸の奥に切なさを感じるだろうと思う。
36話には、だいぶ歳の離れた兄の話が出てくる。「兄弟としての親しみよりも、大人対小供としての関係の方が、深く私の頭に浸み込んでいる。ことに怒られた時はそうした感じが強く私を刺戟したように思う。」とある。「門」に出てくる「小六」という人物の心情を想起させる。わたしは小六の立場のせつなさの記憶が、なんとなく頭の片隅に残っていたので、この部分が沁みた。
32話からのお金の話も、深く刺さります。一度買った本を「安く売りすぎたから買い戻したい」と言われたときの心理と、こういう瞬間に起こる感情が子どものころから認識されていて、その種は大人になっても変わらないことなどが書かれています。



どの小説にも登場する、対人関係を自然にやれない苦しみの吐露が、この32話の後の33話に出てきます。

 私の僻(ひが)みを別にして、私は過去において、多くの人から馬鹿にされたという苦い記憶をもっている。同時に、先方の云う事や為する事を、わざと平たく取らずに、暗にその人の品性に恥を掻かしたと同じような解釈をした経験もたくさんありはしまいかと思う。
 他(ひと)に対する私の態度はまず今までの私の経験から来る。それから前後の関係と四囲の状況から出る。最後に、曖昧な言葉ではあるが、私が天から授かった直覚が何分か働らく。そうして、相手に馬鹿にされたり、また相手を馬鹿にしたり、稀には相手に彼相当な待遇を与えたりしている。

夏目漱石の小説には、「先方の云う事や為する事を、わざと平たく取らずに、暗にその人の品性に恥を掻かしたと同じような解釈をする」人物がよく出てくる。そしてフラストレーションを溜めている。「屈辱感」というのはいろいろな原動力になると、わたしも思う。



27話にあるこの短文の芸術論にうなりました。

 芸術は平等観から出立するのではない。よしそこから出立するにしても、差別観に入って始めて、花が咲くのだから、それを本来の昔へ返せば、絵も彫刻も文章も、すっかり無に帰してしまう。

差異を感じないと表現しようと思わないもんなぁ。



いろいろな小説のモトネタを見たような気がしました。
そしてこのエッセイが書かれた頃は「こゝろ」の後で、もう大作家さんなのに、こんなにあからさまに名を狩る人が寄ってくるの?! というエピソードがあって、驚きました。今でいうと、ペンを渡して「ちょっと書いてよ」といって書いてもらった有名作家の一筆をすぐヤフオクで売る、みたいな感覚の話。次元はだいぶ違いますが、twitterで一般人が芸能人にからんでいるのを見るような、そんな内容のものもありました。
そういうことへの苛立ちにも、毎回「怒っている自分」を一度見て、抑制をして、分解して書いている。すごくおもしろいです。小説が読めない人も、これは読めるんじゃないかな。


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