うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

本質を見通す100の講義 森博嗣 著


このシリーズは「友人が人間摩擦でお疲れの様子のときに差し出す本リスト」に入っているので、これまで紙の本を買っていたのだけど、今回から電子にしました。わたしの数少ない友人で本の話をする2名が両方Kindleユーザーになったこともあり。
過去分も、とくに「常識にとらわれない100の講義」をよく読み返します。お疲れの友人に差し出す一冊は、今でも叶恭子さんかこれかの2択。


今回は、「残念」という表現について書かれているトピックがあり、そこに

それでも、「悲しい」「残念」といった自動詞を使うのは、「相手に直接文句は言わない我慢強い私」を演出したいのだろう。
(自動詞で非難する奥床しい日本人 より)

とありました。
わたしの感じるこわさ(まえにnoteに書きました)とは角度がちがったけど、なるほど。こっちの使い方のほうが日常的に多そう。こういうひっかかりは、他人に話すと「言葉尻をとらえる、めんどくさい人」と思われがちだから、言わない。でも気になる。


今回は【精確な事実を導き出す「情報」論】【人間の真意を読み解く「言葉」論】という部にうなずくものがとくに多くて、ものすごいデトックス効果。
なかでも
『「わからない」という言葉で意見を否定する人たち。』
『「私はこれが好きなんだけれど、貴女は?」という物言い。』
『「私は嫌いです」を「評判悪いですよね」と言い換える。』
という章に大きくうなずきました。
とくに『「私はこれが好きなんだけれど、貴女は?」という物言い。』は、末尾が素敵。わたしもこの章の末尾と同じ勢いで、スピリチュアル系を突き放しにかかりたい。



「日本は牛には甘いのではないか」と問題提起する章や、「人間の壊れ方」について語る章も、ストンとこころにおちる。
『無駄なものは、人間の頭の中にだけある』という章は、夏目漱石の小説「三四郎」の広田先生のよう。だからインド的だといわれるのでは(参考)、とツッコミながら読みました。『感情の理由を知ることで、その感情から解放される。』の末尾で語られることも、たいへんインドっぽい(←この章、たいへんおすすめです!)。



ひとつ、日常案件で「うわぁ」と思ってしまった章がありました。
『サブウェイで注文できる人は、まだ老年ではない。』という章。やはりわたしは、老年に近いのだろうか。中年の仲間入りをしたばかりのつもりでいたところに、「あなたは、こっちですよ」と老年カテゴリに連れて行かれた気分。
わたしは、こだわりのないものを急に選択させられることに疲労を感じます。あんなに決めることが多いと「うどんにしよう」となる。麺のかたさや太さを聞いてくるラーメン屋も苦手で、汁で決めているのに、麺のことを聞かれると「あなたがこのスープにはこれがよかろうというのにしてください」と思ってしまう。パスタみたいに、多くの人が認識しているざっくりとした法則があればいいんだけどなぁ。


そして、趣味でやっていることについての難しい局面として

人が見ないのだから、と妥協できるのか、あるいは、いや自分は誤魔化せないと、よりいっそう厳密になるのか。僕の経験からすると、そういったことで悩むのもまた趣味の醍醐味だし、悩む分だけ楽しみもある、といったところか。

という箇所にうなずく。「悩んでいて気持ちがいい」というのは、なかなか理解されないから。(とくに手芸中)



ちょうど「上から支配」と「下から支配」の言葉を察して(怒りを先に済ませて)グッタリしているところだったので、傷口に絆創膏みたいなタイミングでした。このシリーズはいつも楽しみだけど、このシリーズが売れる世の中は「読んでうなずく人」と「一生読むことすらないであろう人」の溝がどんどん深まっていることでもあるような。
かなしいけど、それも楽しみの一環。たいへんおすすめです。


▼紙の本

本質を見通す100の講義
森 博嗣
大和書房


Kindle

本質を見通す100の講義
大和書房 (2015-07-18)