うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

自尊心をひっこめるためにヨガをしている

先日ヨガクラスでこの話をしたら、意外と「おおっ、そうか」という反応をされたので文章化しますね。
わたしは「自尊心をひっこめるためにヨガをしている」というほうが、今の感覚ではしっくりきます。
逆だと思っている人もいると思うのだけど、逆だと思う気持ちもすごくよくわかります。わたしも以前は、そうでした。
でもいつからか「ああそうか。ひっこめるためなんだな」と感じるようになりました。



 「自尊心」は、コントロールできる状態であることがよい。



「自尊心」とセットで、よく「保つ」という表現が使われますが、わたしの感覚では「保つ状態を保つ」というほうがより実感覚に近いです。「とにかく保つ」のと「保つ状態を保つ」の間にすごく大きな距離があって、その道のりにヨガがあるのだな、と、そんなふうに感じます。
いま「とにかく保つ」のにヨガが役立っていると感じている人は、いつかそれが「保つ状態を保つ」ために役立っているといえるようになるといいですね。こういうことを、ゆっくりと時間をかけて、わたしも感じていきたいと思います。
これはたまたまなのか時節柄なのか、3月の後半から小さな宣言めいた連絡や、「急がないことだけど言ってみた」というような連絡が普段より多くありました。そうやって、バランスを取ろうとしているのかな。(まえに「よろめいても大丈夫、と思える生活のためにヨガをしている」というのを書きました)



ヨガの関係でも、東京から関西へ異動が決まった人から「定期的にうちこのヨガに行けなくなるのが残念。あそこで整えていたのに」というメッセージをもらいました。一緒に練習できる機会が減るのはわたしももちろんさみしいのだけれど、わたしの経験からいうと、そういうことが「とにかく保つ」から「保つ状態を保つ」に変わるきっかけになります。
人は飽きっぽいくせに変化を嫌いもする。変化を嫌うときは、つながっていたことの気持ちよさを認識する機会でもあって、それはそれでヨガを感じる瞬間でもあります。


先日、中村元先生訳の「ニヤーヤ・スートラ」を読んでいたら*1、そのなかに「つながり」と「分離」の単語が出てきました。ひとつの節の中に一緒に登場していたので興味深くじっくり読んでいたら、もとのサンスクリット語

  • 「つながり」⇒sambandha(= sam+bandha = 合わさる + バンダ・縛る)
  • 「分離」⇒ viyoga(= vi + yoga = 分ける・離れる + ヨガ)

となっていました。(カッコ)の箇所はわたしの解釈・補足です。
「分離」のほうにヨガが出てくるのがおもしろいなぁと思って、この「おもしろい」と感じる気持ちを分解してみたら、以下のように思惟する自分の心の種をみつけました。


sambandha は 英語だと relationship(結びつき)という説明が多く、サンスクリット語の感じと「縛り」の強度が似ている。
日本語だと「つながり」のプロセスの中で、ちょうちょ結びを経ずにいきなりカタ結びをしにいくような、「絆」という語感に近い強度を求める人もいるので、「つながり」という訳語だと物足りなく感じる人がいるかもしれない。
いきなりカタ結びをしたいというのは、「この人とつながっていることで自尊心を満たす」ということをしたいのであって、やっぱり縛りかたがいきなりすぎるし、強すぎる。


わたしが「自尊心をひっこめる」ことを意識するようになったのは、ちょうちょ結びが上手にできるようになりたいと思ったから。
カタ結びは、ほどけたときに「あんなにしっかり結んだのに!」となる。ちょうちょ結びは、ほどけそうなときにサッと結び直したり、形を整えたり、長さをそろえたりして気にかけている要素が多い。真ん中はしっかり締まっているのにちょうちょの形は優雅、なんていう状態は、よく修練されたスーリヤ・ナマスカーラのよう。

自尊心をひっこめると優雅になる。ヨガはそういう法則を示してくれるものだと思います。

*1:インド六派哲学の他の学派の書です