うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

明暗 夏目漱石 著


夏目漱石最後の作品「明暗」を読みました。長いのだけど、会話がスリリングでついつい次の章まで読み進めてしまう。
この「明暗」には、中期以降の作品に出てくる「スピリチュアルで思わせぶりなことを、地上から浮いた感じで言い出す男」が一人も出てこない。全員が日常をナマナマしく生きていて、一対一の会話がいちいち戦争。日数にしてたかだか2週間程度の日々の出来事なのなかの人間模様が、たいへん細かく切り取られています。
「地位」「家柄」「財産」「学問」「美貌」「若さ」でポイントを競い合う登場人物たち。なかでも前半は「美貌」「若さ」にかなり字数を割かれています。グルジがこれまでに観察してきた女の生態記録の集大成とばかりに。これがとにかくおもしろい。
ど真ん中でストーリーを回していく女性の立ち位置が複雑なのだけど、これが実にいい。彼女の生き方のテーマは、端的に言うと



 女が余っている時代に
 若さも美貌も学もない女は、どう生きていけばいいのか



そこで彼女が武器として振り回すのは



 「人脈と金脈」



それがなかなか、痛々しい。そして彼女の技巧ははじめは「神通力」のようにはたらくのだけど、魔法が解けてしまった相手にはまったく効かない。
彼女のけなげな技巧や行動を取り囲む主要中心人物ふたりの明確な設定もすごい。



 美男美女の兄妹



このふたりは容姿にまったくコンプレックスがないため、こじれても深くまでいかない。その「深くまでいかない」ところでパス回しを延々続けるという手法から、じわじわ自我があぶりだされる。この美男美女の兄妹喧嘩がすごい。ものすごい石の投げ合い。容姿フル装備同士だとここまでガチンコの試合ができるのかと言うくらいすごい。
この時代の小説ってエロスの描写がほんの少しなので、どの作品を読んでも「で、その女性は心や品位の魅力を抜きにして、色気的な魅力としてはどうなの」という疑問への回答がないのだけど、これは初めから用意されている。


というおもしろみはほんの一部で、とにかく会話がスリリング。
言った人は誰でもいい、名言キターと思ったのは以下の4つ。

  • 交際に研究は禁物よ。(11)
  • 事実当世にいわゆるレデーなるものと芸者との間に、それほど区別があるのかね。(156)
  • 余裕は水のようなものさ。高い方から低い方へは流れるが、下から上へは逆行しないよ。(161)
  • やっぱり慾がなくっちゃ、何でも手っ取り早く仕事は片づかないものさね。(170)

この小説は「風」の描写が印象的。「風」のありなしで、ひとつずつ気になった。

風がないので竹は鳴らなかったけれども、眠ったように見えるその笹の葉の梢は、季節相応な蕭索(しょうさく)の感じを津田に与えるに充分であった。(33)


表はいつか風立った。洗濯屋の前にある一本の柳の枝が白い干物といっしょになって軽く揺れていた。それを掠(かす)めるようにかけ渡された三本の電線も、よそと調子を合せるようにふらふらと動いた。(114)

風にいろいろなものが揺れていると、自分だけが傍観者のような気がするけど、その瞬間の後に自分の髪もなびいていることに気がついて、自然に抱かれている感じがしたリする。そういう感じがあることを思い出させてくれる描写。




「土」が出てくる描写も印象的。

その重い感じというのを、どう云い現わしていいか、彼には適当な言葉がなかった。無神経な地面が人間の手で掘り割られる時、ひょっとしたらこんな感じを起しはしまいかという空想が、ひょっくり彼の頭の中に浮かんだ。(42)

主人公が痔の治療をされる場面。天才。この身体観(身体勘)! もしヨガをしてたら相当うまくなるタイプだと思う(当社比)。




ここは、なんでこんな女性の心理描写ができるやら、とおののいた。

彼女の心にも柔らかで軽快な一種の動揺が起った。それは自分の左右前後に紛として活躍する人生を、容赦なく横切って目的地へ行く時の快感であった。(45)

自由時間を得て行動する女性の心理描写。同時に読んでいた「紙の月」の心理とも重なって見えた。




同じく女性ネタ。

同時に女性の本能から来るわざとらしい声を憚(はばかり)なく出して、遊技的な戦いに興を添えた。(70:いわゆる女子会の描写)

これは「こころ」で「お嬢さん」の態度の表現と似ているけど、「女性の本能から来るわざとらしさ」って、あるよね。




関連して、以下も。

できるだけ多くの注意を惹こうとする浮誇の活動さえ至る所に出現した。(49:芝居の劇場の様子)

「浮誇(ふこ)の活動」という表現は、まさにFacebookや炎上するコンテンツにあるマインド!




ひとりダブルチェックについて語る以下も、うなる。

しまいに筆を擱(お)いた彼女は、もう一遍自分の書いたものを最初から読み直して見た。彼女の手を支配したと同じ気分が、彼女の眼を支配しているので、彼女は訂正や添削の必要をどこにも認めなかった。日頃苦にして、使う時にはきっと言海(げんかい)を引いて見る、うろ覚えの字さえそのままで少しも気にかからなかった。(78:自分の文章を添削する行動の描写)

同じ気分で支配しているのだから、行動だけ仕切りなおしても意味がないという真理。




以下は、わたしも人間関係でこういうことあったなぁ、と思った。

感激家によって彼の前にふり落された涙の痕を、ただ迷惑そうに眺めた。(36)

「感激家」というタイプの人は、けっこういるなぁ。と思って。わたしがLINEをやらないのも、そんなにいちいち感情が動いてないし、みたいなところがある。メールの絵文字でもめんどくさいのに(笑)。




上記にうなずいた不器用な女性には、以下も刺さるでしょう。

卒直と無遠慮の分子を多量に含んだ夫人の技巧が、毫も技巧の臭味なしに、着々成功して行く段取を、一歩ごとに眺めた彼女は、自分の天性と夫人のそれとの間に非常の距離がある事を認めない訳に行かなかった。しかしそれは上下の距離でなくって、平面の距離だという気がした。(53)

これはある社交シーンでの女性の心理描写なのだけど、思っている側も思われている側も、どっちの立場もわかるなぁ、と。「卒直と無遠慮の分子」って、営業センスだから。




冒頭にも書いたけど、この本は美男美女の兄妹による本気の喧嘩がすごい。

お前に人格という言葉の意味が解るか。たかが女学校を卒業したぐらいで、そんな言葉をおれの前で人並に使うのからして不都合だ。(102:兄⇒妹)


兄さん、これは妹の親切ですか義務ですか。兄さんは先刻そういう問を私におかけになりました。私はどっちも同じだと云いました。兄さんが妹の親切を受けて下さらないのに、妹はまだその親切を尽くす気でいたら、その親切は義務とどこが違うんでしょう。私の親切を兄さんの方で義務に変化させてしまうだけじゃありませんか。(110:妹⇒兄)

この妹、頭いいのよね。でもバカ扱いなの。そういう時代。




で、この兄さんはイケメンなだけで、それ以外はかなり残念。以下は、その兄さんが友人のことを妻(お延)に話す場面。

「(略)不幸にして正則の教育を受けなかったために、ああなったと思うと、そりゃ気の毒になるよ。つまりあいつが悪いんじゃない境遇が悪いんだと考えさえすればそれまでさ。要するに不幸な人なんだ」
 これだけなら口先だけとしてもまず立派なのであるが、彼はついにそこで止まる事ができないのである。
「それにまだこういう事も考えなければならないよ。ああ自暴糞やけくそになってる人間に逆さからうと何をするか解わからないんだ。誰とでも喧嘩けんかがしたい、誰と喧嘩をしても自分の得とくになるだけだって、現にここへ来て公言して威張えばってるんだからね、実際始末に了おえないよ。だから今もしおれがあいつの要求を跳ねつけるとすると、あいつは怒るよ。ただ怒るだけならいいが、きっと何かするよ。復讐(かたきうち)をやるにきまってるよ。ところがこっちには世間体があり、向うにゃそんなものがまるでないんだから、いざとなると敵(かな)いっこないんだ。解ったかね」
 ここまで来ると最初の人道主義はもうだいぶ崩れてしまう。しかしそれにしても、ここで切り上げさえすれば、お延は黙って点頭(うなず)くよりほかに仕方がないのである。ところが彼はまだ先へ出るのである。(152)

この救いようのない性格が、ちょっと癖になる。イライラしながら読むのが楽しい。




そしてこのイケメン兄さんにお金をたかったり黒魔術をかけてくる友人がいるのだけど、この人は「三四郎に出てくる与次郎がダークサイドに振り切るときっとこうなる」みたいな感じの人。

僕が仏蘭西(フランス)料理と英吉利(イギリス)料理を食い分ける事ができずに、糞と味噌をいっしょにして自慢すると、君は相手にしない。たかが口腹(こうふく)の問題だという顔をして高を括っている。しかし内容は一つものだぜ、君。この味覚が発達しないのも、芸者と貴婦人を混同するのも。(159)


同情心が起るというのはつまり金がやりたいという意味なんだから。それでいて実際は金がやりたくないんだから、そこに良心の闘いから来る不安が起るんだ。僕の目的はそれでもう充分達せられているんだ。(165)

ナイス・デビル。とんちもきいてる。老子の引用みたいなことも言ったりする。




で、イケメン兄さんは、終盤でこんな境地になる。

今までも夢、今も夢、これから先も夢、その夢を抱いてまた東京へ帰って行く。それが事件の結末にならないとも限らない。いや多分はそうなりそうだ。(171)

ぜんぶマーヤーだって気づくの。そんなに頭よくないのに気づくの(イライラしながら読んでいたもんで、つい・笑)。




そしてこんな自問自答もする。

過去の不可思議を解くために、自分の思い通りのものを未来に要求して、今の自由を放り出そうとするお前は、馬鹿かな利巧かな。(173)

もう少しでインド人! 「過去と未来のことを考えている瞬間、"今" を殺している」ということに気づけばインド人!
でも気づかない。イケメン万歳。



10年後に読んだらまったく別の人に共感するのだろうな。そのときは、どの人物だろう。
この物語を読んだら、「こころ」でKと先生がこじれても結婚は成立する恋のレールを敷いたのは静のお母さんの陰謀では、という説が「そうかも!」と思えてきた。この本にも静ママみたいな人物が出てくる。
絶筆作品だけど、この作品以降にもし3作品くらい書くに至ったとしたら、グルジはどこまでエグい作品を書いただろう。そう思うとすこし怖くなりました。でも読みたかった! うわーん。
(この小説は完結せずに、絶筆してるの)


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明暗
明暗
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(2012-09-27)


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