人がやさしくなるために、それぞれの道がある。
サマセット・モームはこの小説を40歳の頃に発表している。── ということは、この振り返りを30代の後半ですすめていたわけか。この小説は自伝的小説と言われていて、幼少期から30歳くらいまでのひとりの男性の人生が書かれています。
これまでに読んだ小説もそうだったけれど、サマセット・モームの作品の魅力は書き手の安定した性格の悪さ。性格はとことん悪いけれど人格まで同じ色に染まらないように葛藤する、その過程をしっかり記述する真面目さがとにかく強い。ここまでパワフルな人間には神も太刀打ちできない。
でもサマセット・モームは悪魔じゃない。ものすごく人間らしい人間。人間らしさって悪魔的なんだなと思わずにいられない。
「人間の絆」はものすごく厚い上下巻で読むのに2か月くらいかかったのだけど、下巻の後半はあっという間に読めました。途中の心理描写に思わずロールバックせずにいられない読みどころが多く、まだ見落としているところも多いと思うので別の訳でも読みたい。内容はひとことでいうと、こんな感じ。
クズでも幸せになれる。でもクズはクズ。
サマセット・モームはとても誠実。クズ的な性質を自認したうえで始終軸足をそこから外さない。他人から借りてきた思想で急にポジティブに転調したり上書きしたりしない。
あらゆる場面で書き記す "奇妙な感情" は明らかに差別感情から湧き出ているものなのだけど、主人公が自身の傲慢さを心根のところで認めていないために "奇妙な感情" ということにされる。
たとえば、このように。以下は今でいうシェアハウスのような場所で過ごす主人公フィリップの心情。心の中でこの女には魅力がないと見下していた西洋人女性が、ふてぶてしくてつかみどころのない中国人男性と熱烈な恋に走っていく。その騒動に巻き込まれる。
呼吸も塞がりそうな空気だった。まるで不潔な二人の痴情沙汰が、家中をかき乱しているかのようだった。東洋的堕落というようなものをさえ、思わせるものだった。かすかな線香の香り、秘められた悪の神秘、なにかそういったものが、彼等を息苦しくさせているようだった。フィリップは、前額の血管が、ドキドキと脈打つのを感じることができた。彼を困惑させている奇妙な感情、それは、彼自身にもよくわからなかった。なにか、限りなく惹かれるようなものを、感じるかと思えば、他方ではまた、強い、恐怖に似た反発をも感じる。
(256ページ 上巻 30章より)
この主人公はほんの少し前の章まで、とにかく女性経験を得るためにあらゆる脳内の論理の書き換えをして、中年女を中年ではないことにして無理やり恋をする。
そして服を脱いだ女を見て思いっきりがっかりして、でもやることはやって、心の中で相手を邪魔に感じる。そんな青年フィリップのクズっぷりを見せられたばかりの読者に、そのあとの引っ越し先ではこんなことを考えている様子を見せる。どこまでも自由に他人をこき下ろし続ける人間を書く。
この小説はいろいろな人が身分容姿年齢性別国籍でコケにされる描写が続くのだけど、そのような思考をする人間の愚かさもつまびらかにされる。
そしてサマセット・モームと言えばやっぱりこれ。
性欲をこじらせた自分を客観視する心理描写はこの作家の十八番というか、そこまで真面目に書いてくださらなくても! という勢い。ちょっといいなと思っていた女性が友人と付き合い始めたときの描写も真面目です。
面と向って、彼女を見ると、彼の気持はガラリと変った。もはや抱きたいなどという気持も起らなければ、彼女に接吻しているところなどは、想像もできなかった。実に奇妙だった。離れていると、美しく思え、ただあの大きな、すばらしい眼や、ほの白いクリーム色の顔ばかり、浮んで来るのに、さて、会ってみると、徒らに、平べったい胸や、歯が少しばかり虫歯になっているのばかりが、目につくのだった。それに、足趾のタコのことも、忘れられなかった。われながら、よくわからなかった。いったい自分は、いつも人のいない時だけ、恋をして、かんじんの機会があった時には、そうでなくとも、いやなものを、一層いやなものにして見るらしい、奇形的な物の見方のために、決して物にすることのできない人間なのではなかろうか?
(483ページ 上巻 47章より)
今の感覚でいうとこれは、総選挙で推しに対して「推しをやめるぞ」と脅してみたいけどできない、それを脳内でやり続ける人みたいな感じ。会いに行けるアイドルという商品がマネタイズしているのはこの心理でしょう。まったくタチが悪い。
この主人公は失恋も少しずつ上達して、振られる前にこっちが振ったことにするというようなメンタルからもやがて抜け出ていきます。その過程もまた書き方がユニークで…。以下は振られてしばらく後の主人公。
彼は、自分の意志力を、ひそかに祝福した。今では苦痛といっても、もう前のような、懊悩(おうのう)というのではなく、ただいってみれば、馬から落ちて、別にどこも骨は折らないが、全身打撲(うちみ)で参っているというような、ちょっとそんな痛みだった。今では、この数週間来の自分の姿を、あらためて、興味をもって、眺めてみるくらいの余裕はできていた。彼は、自分の感情を、丹念に分析してみた。われながら自分というものが、多少おかしかった。そして一つ気のついたことは、ああした場合、人間の思想などというものは、案外なんにもならないということだった。考え出した時には、大得意だった彼の人生哲学なども、そんなものは、何の役にも立たなかった。これには、弱った。
(615ページ 上巻 59章より)
全身打撲ってけっこうな痛みじゃん!とつっこませるポイントを残しつつ、失恋に哲学なんて効かないと悟る。「これには、弱った。」って、なによー!かわいい! こういう緩急にやられる。読まされる。
下巻になると主人公はさらに成長して、最悪の状態にも光を見出す方法を自然の中に探すようになるのだけど、その手前の思考の俗っぽさがこれまた漏らさず書かれる。どこまでも性格が悪い。以下は、貧困に陥ったときの主人公。
それにしても、なぜこうヘマばかりやるのだろう? 考えてみると、始終最善と思えることばかりして来たつもりだが、ただそれがすることなすこと、ことごとく巧くいかないのだ。できる時には、人を助けることもしたつもり。決してほかの人以上に、利己主義だったとは思えない。してみると、その自分が、こんなにもひどい窮地に陥るとは、なんというおそろしい不公平だろう。
だが、考えたところで、どうにもならなかった。彼は、また歩き出した。ようやく、明るくなった。河は、美しく、静まり帰り、早朝の空気の中には、なにか一抹神秘的なものさえあった。よい天気になるらしい。白々とさえる暁の空には、雲一つなかった。
(415ページ 下巻 100章より)
この「できる時には、人を助けることもしたつもり。決してほかの人以上に、利己主義だったとは思えない」という思考を書き洩らさないところが几帳面。さらにその後、友人に借金を切り出すときの「むずかしさ」の描写でグイグイえぐってくる。
それにしても、借金話を切り出す難しさは、予想以上だった。よく病院の連中が、てんではじめから、返す気などない金を、まるで逆に、恩恵でも施しているかのような顔をして、借りに来た、あのケロリとした態度を、今さらのように、彼は思い出した。
(422ページ 下巻 100章より)
恩恵でも施しているかのような顔でもしないとやっていけない。そう。それが現実。
次章では主人公が友人の親切(金銭補助)を素直に受けつけられず、それを「奇妙な生来の臆病さ」と書いているのだけど、この「奇妙」は、わたしが40年以上追いかけてまだ実体がつかめていない恐怖の対象そのもの。ひとことでいったらエゴでありプライドなのだけど、一筋縄ではいかないもの。必要だけど、ありすぎてもだめなやつ。
何度も他人の助けで救われているのに、熱さが喉元を過ぎたら感謝の気持ちなど本来持ち合わせていなかった自分を振り返る。この主人公の正直さが始終苦しいのだけど、こういう読書時間が必要。わたしのような人間にはね。
「それにしても、なんといういやな人間なのだろう、俺は。」彼は、ひそかに思った。「なんでも、はじめは首を長くして待っておりながら、さていよいよとなると、いつでも何か失望しているのだ。」
(537ページ 下巻 111章より)
この辺りまでくると、「自分の人生がうまくいかないのは自分のせいで、感謝の気持ちというのはそれを認めて続けていなければ湧き続けないものだ」ということを知らされる。
そしてここからクライマックスまでいっきに読ませる展開。こうなるまでの思想的な伏線は上巻から何度も設定されていたことに、今さらながら気づく。気づいた時にはもう読むことをやめられない。
下巻の一部は思いっきり「万引き家族」の世界で、この小説は恋愛にすったもんだしている主人公のしょうもない青春だけでなく、精神と生活水準の格差もとことん描く。これを両立させちゃってるところがすごい。
幼少期に親は死んじゃうし、脚は蝦足だし、勉強も恋も仕事も家庭を持つことも、なんだかぜんぶうまくいかない! いかなぁああああああーーーーーい! という葛藤の中にもあきらかに光はあって、恵まれてもいる。恵まれてもいるのだけど、人格というのはどうにも自分でつくっていくしかない。この主人公は性格が悪い。遺産が一日も早くほしくて身内の死を願うくらい性格が悪い。
でもわたし、この人間すきだわ。
- 作者:モーム
- 発売日: 2007/04/24
- メディア: 文庫
- 作者:モーム
- 発売日: 2007/04/24
- メディア: 文庫
もういちど感想を書きました
これ以前に読んだサマセット・モーム