うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

(再読)すべて真夜中の恋人たち 川上未映子 著

先月、松浦弥太郎さんの「正直」という本を再読したことについて書きましたが、自分の生活を変えるときの感覚をとらえたくて、「すべて真夜中の恋人たち」も再読しました。

この本はタイトルが恋愛小説のようでありながらお仕事小説でもあって、現代社会のなかでなんとか職を通じて自分の居場所を確保して葛藤している人たちの話。主人公とその周辺の同世代の女性たちの苦しみかたが、自分のこれまでの経験と重なります。

 

この本は東京と神戸の読書会でも使用したことがあり、読むたびにわたしの記憶の中から解凍される想い出に変化がある小説ですが、今回は「石川さんの自認する四面楚歌」が以前よりもリアルに感じられました。あえて石川さんと書くのは、彼女の周囲の人がいかに彼女の扱いに困っていて、それを本人も自覚したうえで総合的にうまくいっていないことが読み取れたから。

わたしも石川さんと同じように自分のエネルギーの取り回し方がわからない時期があって、彼女の放った以下のセリフの前後の流れがとても印象に残りました。

「今年はいよいよカウンセリングを受けるべきね」(2章)

この言葉を発する前に、彼女はスピリチュアルであることを人生の指針とする人々をとことん蹴散らします。それはとてもスカッとする演説で、わたしの友人にも「よくぞ言語化してくれた!」という石川ファンが数名います。

ただそのあとで、彼女は上記のようにつぶやくんですよね…。そこを深く読んでいませんでした。これまでは、"スピリチュアル族から見たらわたしはカウンセリングを受けるべき人間なんでしょうよ" という石川さんのやさぐれた気持ちに共感していたのだけど、よくよく読んでみると事情はもう少し深刻です。

冬子(主人公)が石川さんの不在時に会社へ物を届けたときの職場の人の態度や、共通の知り合いの葬儀の後にも関わらず展開される同業者の悪口から、石川さんが職場で嫉妬や恨みを買って、居場所を確保するのに苦難していることがよくわかる。

 

石川さんは自身の激質を自認していて、それが行き過ぎて病んでいる(自分の毒が自分に回っている)のであろうことも自覚していて、自分の存在を真夏のみみずに喩えて、ただ乾いていく感じだと話します。冬子を壁打ちの相手にしながらどんどん言葉を繰り出していく。たぶんこれがカウンセリングになっている。

 

三者は、冬子が石川さんが自分を正当化するための道具にされていると言います。

 

 

 (道具でも、いいんですけど)

 

 

冬子はたぶんこう思っているのだけど、口にしません。小説のなかにもそんなセリフはありません。でもこの物語においては、上記の句読点に(わたしたちは信頼しあえているから)の意味が入るのだろうと解釈しています。

カウンセリングには信頼関係が欠かせない。今回はそんなふうに読みました。

 

 

終盤で冬子に言葉が生まれた瞬間の描写も、やっと体感的に読むことができました。

これまでは「なんだか急にきれいなトーンでクロージングに向かっているな…」くらいにしか思えなかったけれど、今回は「自慢と怒り以外の感情は、とりわけしつこい後悔を含む感情は、言語化するのがむずかしい」という実感が自分の経験として溜まっていたこともあって、冬子にオリジナル言語キター!!! という応援の気持ちで読みました。

何が気になっているのだろう。さっきから何が。

 

この短い脳内描写がとてもリアルに感じられました。自分の頭の中を戦場にして、借りてきた武器で言葉を戦わせることをしない。そこから生まれる純粋な問い。

設定ありきの問いを「思考」だと思ったら大間違いで、それは自慰行為のバリエーションのひとつでしかないということがわかった瞬間。たぶん石川さんの言う「引用」もそれで、ここに罪悪感を持てるか持てないかが、きっとなにかの境界。

この境界を語るときにスピリチュアルなフレーズを持ち込まない方法を、目下模索中です。(けっこうむずかしいよこれ!=やっぱりスピリチュアルって便利なのよ!)

 

すべて真夜中の恋人たち (講談社文庫)

すべて真夜中の恋人たち (講談社文庫)

 

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