うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

マヌ法典 渡瀬信之 翻訳


夏から数ヶ月、ゆっくりじっくり読ました。「マヌ法典」はバガヴァッド・ギーターと同時代にまとめられた、マヌの教え。マヌさんが座っているところに偉大なリシたちが質問をしにいくところから第一章がはじまります。
以前紹介した同じ訳者さんの要約版では「刑法」に似た項目のものが、かなりわかりやすくまとめられています。全体訳を読むと「ヒンドゥー・ブラフマニズム世界」がよくわかる。


なにより、この本は、ここがいい!
<巻末 東洋文庫での再刊にあたって より>

 再刊に際しては、訳文および訳注の一部改訂を行なったが、最も重要な点は、ヴェーダ=ダルマの世界における重要観念の一つである罪の清めに関して、これまで一般的に用いられてきた「贖罪」という訳語を改め、「罪の除去」としたことである。すなわち「罪を償う」という観念は存在しないからである。

ここの言い切り、とても重要です。輪廻思想がベースにあって、来世のために罪を償うのではなく、罪を除去しようとする。刑法もある意味非常にシンプルです。



厚い本なのですが、わたしが付箋を貼った節を紹介します。

■第一章(序章)

  • 1.11:姿が見えず、常住で、有と非有を本質としている原因 ── それから生まれたかの者(プルシャ)はこの世でブラフマンと呼ばれている。
  • 1.14:(ブラフマンは)彼自身から有と非有からなるマナス(思考力)を、そしてマナスから自意識者であり支配者であるアハンカーラ(我欲)を取り出した。
  • 1.15:さらに、偉大なアートマン、三グナを有するいっさいのもの、対象の認識者である五感官を順次(取り出した)。

マナスからアハンカーラを取り出したってのは、すごくおもしろい。

  • 1.97:ブラーフマナの中では学識ある者が、学識ある者の中では意識の確立した者(判断力のある者)が、意識の確立した者の中では実行する者が、実行する者の中ではブラフマンを知る者が(最も優れていると言われている)。

ギーターの12章12節と似た感じがします。




■第二章

  • 2.2:(人間が)欲望(カーマ)を本質としていることは褒められない。しかしこの世において欲望がない状態はありえない。実に、ヴェーダの学習も、ヴェーダに規定されるこういうの実践も欲望によって生じる。
  • 2.3:実に、欲望は思念(サンカルパ)から生じる。祭儀も思念から生じる。誓戒(ヴラタ)も生活規定のすべても思念から生じると言われている。
  • 2.4:欲望のない者の行為などこの世のどこを探しても知られない。何をしようともそれは欲望のなせることである。

行為の源としてのカーマとサンカルパのありかたをがっちり認めて定義してるの。

  • 2.74:ヴェーダ(学習)の開始と終了には常にオームを唱えるべし。初めにオームが唱えられずに開始されるとき、(ヴェーダは彼から)流れ漏れる。そして終わりに(オームが唱えられないときには)粉々になる。
  • 2.110:何者にであれ、問われないのに教えてはならない。また不適切に問う者に(教えてはならない)。実に賢者は、人々の間では、知っていても愚者の如くに振舞うべし。

ブラフマーナは、という規定の部分。脳ある鷹は〜 のような節。「問われないのに」は逆の視点もあって、ギーターもそうだけど、インドで哲学の授業を受けるときは、とにかく「問え」と詰められる。「質問ないのか? 勉強しに来たんじゃないのか?」と(笑)。日本じゃありえない勢い。

  • 2.120:年寄りがやって来ると若者の生気は上に抜けてしまう。起立と挨拶によってそれらを取り戻す。

これおもろいでしょ。車両の中に張れば、いろいろ解決しそう。

  • 2.161:苦痛を与えられたとしても苦痛を与えてはならない。他人を害することは、行っても考えてもならない。(他人が)怖がるような、天界に値しない言葉をしゃべってはならない。

ここ人間界よー。

  • 2.213:この世で男を堕落させることが女の本性である。それゆえに賢者たちは女たちに心を許さない。

男尊女卑ネタは、マヌ法典なのでかなりハッキリ書かれています。インドは「男は甲斐性」の世界でもあるけど。




■第四章

  • 4.159:なんであれ他人に依存する行為を努めて避けるべし。努めて自らの責任においてなされる(行為)に従事すべし。
  • 4.240:生き物は独りで生まれ、独りで死ぬ。(そしてあの世において)独りで善行(の果報)を享受し、独りで悪行(の報いを味わう)。
  • 4.256:すべての事柄は言葉に依拠し、言葉を根とし、言葉から生み出される。そのような言葉を盗む者はいっさいを盗む者である。

こんなふうに、グイグイくるのもある。




■第六章

  • 6.76:骨を支柱とし、腱で結ばれ、肉と血を漆喰とし、皮膚に覆われ、悪臭を放ち、糞尿に満ち、
  • 6.77:老いと悲しみに占領され、病の座所であり、苦に悩まされ、ラジャス質に満ち、そして無常なこの物質要素の住処(身体)を遺棄すべし。

ブッダのよう(参考




■第七章

  • 7.97:以上において、非難されない永遠の戦士のあり方(ヨーダダルマ)が語られた。クシャトリヤは戦闘において敵を殺す際にはこのあり方から逸脱してはならない。

ヨーダダルマ!(ダジャレ的に反応しています)




■第八章

  • 8.84:「アートマンが自己の証人である。アートマンは自己の帰着点である。人間にとって最高の証人である自己のアートマンを粗雑に扱ってはならない」
  • 8.170:貧困であっても王は取るべきでないものを取ってはならない。また富んでいても取るべきものは僅かであっても放棄してはならない。
  • 8.222:この世において、なにかしらを売買した後に後悔したときは、その者は十日以内にその品物を返還あるいは受け戻すべし。

クーリング・オフの概念がすでに。しかも10日(笑)。




■第九章

  • 9.33:女は畑であると言われる。男は種であるといわれる。畑と種の結合により身体をもつもののいっさいが生れる。
  • 9.72:規則に従って受け取った後でも、娘が非難される娘であったり、病気を持っていたり、処女でなかったりあるいは詐欺によって与えられたりしたときは捨ててよい。
  • 9.74:(他国で)仕事を持つ者は、妻の生計を確保してから旅立つべし。なぜならば、妻はたとえ意志堅固でも、生計がなく苦しむときは堕落するからである。
  • 9.89:初潮を迎えたとしても、資質を欠く男に娘を与えるくらいなら、娘は死ぬまで家にい続けたほうがましである。
  • 9.300:疲れても疲れても何度でも行動を起こすべし。なぜならば行動に着手する人間に幸福の女神(シュリー)は従うからである。

男尊女卑なんだけど、トータルで家庭がまわり、子孫が絶えないように考えられている感がすごくあるんだよなぁ。最後のピックアップは王様に向けた節です。




■第十二章

  • 12.4:この世における身体を有する者にとって、意(マナス)は、三種(心、言葉、身体)からなり、三種の住処(上、中、下の帰着点)を有し、十の特相を持つもの(すなわち行為)の発動者であると知るべし。
  • 12.103:書を読む者は無知な者よりも優れている。(それを記憶に)保持する者は書を読む者よりも優れている。(理解し)知識として所持する者は(単に記憶として)保持する者より優れている。(単に)知識として所持する者よりも(それに基づいて)行動する者が優れている。
  • 12.122:微細なものよりも微細で、黄金のように輝き、熟睡時における知によって認識されるいっさいの支配者、その者を至高のプルシャ(すなわちアートマン)であると知るべし。

至高のプルシャというあたり、同時代のギーターと似ていますね。


ヴェーダからウパニシャッドを経て、ブラーフマナ階級で脈々と引き継がれてきた教え。
インド人のあの不思議な優先順位を理解するのに、マヌ法典とバガヴァッド・ギーターを併せ読むと、格段にいろいろハラオチします。洗脳かもしれんが(笑)。