うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

これを自己啓発本のように読んでいいのかと疑いつつ、鼓舞もされる自分自身のこと


先日、ことしの東京での読書会を終えました。「バガヴァッド・ギーターをうなりながらタテノリで読む会」をやりました。
読書会は設定に工数がかかるのでそんなに頻繁に開催できないのですが(ゆえに告知もひっそりになってしまうのですが)、いまでは「見つけたならどなたでもどうぞ」という形にしています。はじめて4年になりました。

以前の東京開催はヨガの練習でお会いした方たちへの告知のみ(クローズド)で「ひとんちの台所」で開催していたのですが、今回は初参加のかたが半数以上。ヨガをされていない人もおいでくださり、わたしの開催する読書会を知ったきっかけをお聞かせいただくと「西遊記」「ビートルズ」「中村天風」「スティーブ・ジョブズ」など、愛すべき各方面から。細々と続けてきた延長にある、こういう出会いは楽しいもの。
あまねくあるものについて話すことを、時間と言葉を共有できたことを、うれしく思います。


これは最も多い感想なのですが、初参加のかたから「ひとりで読んでいるときは、これは自己啓発の本のように読んでいいのかという思いがあったのだけれど、いろいろな人の視点を知ることで安心した」と言われると、わたしもそのためにやっているようなところがあるので「ここまで来てくれて、ありがとう」という気持ちになります。
この日は冒頭でわたしがずっと感じてきたことを話したのですが、



 わたしはもともと、ヒンドゥー教徒として生きてきたわけではない



という、ヨガを学べば学ぶほど自身の土台を知ることになるこのジレンマにどうやって向き合うか。ここをスルーせずにやってきました。
インドの道場でインド人や西洋人(聖書を読む人たち)と毎日ディスカッション授業に参加してきたあとで、日本へ帰ってきてから考えたうえでの形式が「読書会」で、ニーズがなければすぐにやめようと思っていました。なのでまずは知人宅でスタートしました。
ギーターの教えに触れていくとき、日本人は聖書も聖典もない生活をしているので、まずそこから考えなければならなかったのですが、意外と受け入れてもらえた。
読書会では、さまざまな書物の歴史やマヌ法典の存在にも触れたうえで



 あなたがギーターのフレーズに鼓舞され、心が動かされる
 その気持ちを発芽させる種は、どこにあるか



こんなことを掘っていきます。
わたしがインド思想の中にある概念とサンスクリット語の意味をたよりに、あなたの中にそっと入っていきます。孫悟空が小さくなって、魔王の胃袋の中へ入っていくときのように。


自分の中にある欲望を見つけるのって、すごくむずかしいんですよね。自分自身に対して、自分で見栄を張るから。
でも日本人は、なぜか温泉だといっしょにいきなり裸になったりする。わたしはインド人の先生に「日本人はなんで風呂となると集団でさくっと裸になれるのか、あればっかりは意味がわからない。日本人は、シャイではない」と言われたのですが、そこにもヒントがあって…。
読書会は精神的温泉・共同浴場みたいな感じでやっています。しかも、混浴!(笑・この日は男性のほうが多かった)


まぁ参加してみればわかりますという感じなのですが、次回の東京開催は来年以降になります。今年もたくさんのご参加、ありがとうございました。
読書会のほうは、わたしが書いているもうひとつの「まろやかインド哲学」というブログを2ヶ月に1回くらい、思い出したようにチェックしてもらうと見落としがないかと思います。