今日はヤングなヨギーさん、ヨギーニ(ヨーギニー)さんに読んでもらいたい話を書きます。
ヨガに関係するカルト事件というと、昔オウム真理教という団体があったんですよね、という知識がある人は、いまの20代30代にも多くいらっしゃると思うのだけど、「シャクティーパット」と言われても「なにそれ?」ってなるんじゃないかな。どうかしら。
(知ってるあなたは非ヤング仲間よー)
シャクティは広義で「エネルギー」という意味で使われるインドの言葉で、パットは英語で「叩く」です。
日本では90年代にオウム真理教のほかにも、特別な力を持った人が手で触れると病気が治りますよというあれこれがあって、当時まだ社会人になりたてだったわたしは、なんで大人がこういうことを信じるのか不思議だと思っていました。「大人」を雑に捉えていました。
自分がヤングのポジションに居られたのでね。
だけどあれから約30年の月日が過ぎ、見てきたニュース・歴史が増え、こういうのってずっとあるんだという見かたに変わりました。大人の世界の奥行きが見えてきた。
そもそも、キリスト教の聖書にもあるんですよね。宗教というものに根本的にすごく疎かったのでした。
シャクティ・パット? シャクティ・パータ?
わたしはインドのヨガの古い書物に、「シャクティ・パット」の記述をまだ見たことがありません。
シャクティはインドの言葉だけど、パットは英語だから、ないのか。どうなんだろう。
ですが、「シャクティ・パータ」というのはインドの書物で見たことがあります。(ややこしい!)
「パータ」は送るとか転送という意味で、手で送るわけじゃなくて、なんと目線で送っちゃう。
ヨガのグルは、触れもしないんかーい! というレベルでエネルギーを転送します。
『あるヨギの自叙伝』などの有名なヨーギーの伝記にも、エネルギーの転送の話が登場します。
で、今日はハタ・ヨーガの書物のなかにある、記述を紹介します。
シャクティというエネルギーについての古代ヨーギーによる観察・分解にはとても興味深いものがあります。(先日書きました)
『Siddhasiddhantapaddhatih』5章にある記載例
昔から修行ジャンキーみたいになってしまう人ってのは、やっぱりいたみたいです。
『Siddhasiddhantapaddhatih』というハタ・ヨーガの書物に、修行・苦行・儀式・祈りだけじゃダメなんだよということを述べる内容があるのですが、そのあとに、「グルの恩寵がないとダメなんだよ」という記述があります。
これだけじゃダメなんだよリストに挙げられているものは、以下です。
アーサナ、無執着、望みを失うフラストレーションや食のコントロール、プラーナーヤーマ、ムドラーを身につけること、沈黙・行為・平等が合一するヨーガを行うこと、情熱から解放されること、不毛の努力をすること、物質の苦しみをまとうこと、ジャパを行うこと、苦行瞑想を行うこと、巡礼の儀式を行うこと、神に祈りを捧げること、アーシュラマを守ること、六派哲学を学ぶこと、剃髪をすること、他のあらゆる方法
このようにリストアップした上で、「これらのすべての有体の意味を離れ、達人は至高の階梯に存在する」と記述されています。
そこから闘魂注入(もとい、ラブ注入)っぽい展開がくる
ここで終わっていれば、まあそれはそれでまとまっているというか、精神の悟りというのはエゴの浄化のあとにあるのだなと理解をすすめるところなのですが、この書物では、その後にこうきます。
どうやって行うかについて述べる。
「どうやって行うか」って、なんか別の方法があるかのように感じますよね。
で、そのあとに、こうきちゃいます。
グルの慈悲ある一瞥(開き)によって、奇跡を制御し真実を話す不動のヨーギーが育つ。
言説、シャクティパータ(精神エネルギーの転送)、平穏な自らのグルの足元を見ることによって正しい聖なる階梯が達成される。
ここで、シャクティの転送が出てきます。
このように、グルに意識を向けてもらうことで成就できるんだよ、みたいな記述が昔の書物に実際にあるから、オウム真理教のような事件にもつながってしまうのだろうなと、ヨーガの古いテキストを読んでいると感じます。
テキストの中ではさらにこのあとに、「よき師(グル)とはこのような存在だ」ということが掘り下げられていきます。
よき師(グルとは)のなかには、
不正確な偽者の無知なグルは排除される。自らくつろぎの知恵を学んだわけではない者に、何をゆだねられよう。
とも書かれています。
昔のインドにもヨガで自己啓発とか、いわゆるメンター事業みたいなのをやる人がいのかしら。
* * *
結論:
ヨガの歴史って、おもしろいのよねぇ。