うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ジョージ・ハリスンとバガヴァッド・ギーターと「I Me Mine」


まえに「ジョージ・ハリスンのアイ・ミー・マイン(I Me Mine)」というのを書いたのですが、この曲名をWikipediaで見ると、

歌詞の内容は「いつもいつも僕が、僕が、僕が」と主張する人間のエゴを痛烈に皮肉ったもので、ジョージ自身は『バガヴァッド・ギーター』の一節を基にしたと語っている。(Wikipedia

とあり、いつか時間のあるときに見ようと思いつつそのままにしていました。
今年の春からバガヴァッド・ギーターの読書会を始めたのでテキストを作るのに読み返す機会が多く、この曲に関連しそうな節を拾い上げました。
以下の2つです。

  • 2章71節

すべての欲望を捨て、願望なく、「私のもの」という思いなく、我執なく行動すれば、その人は静寂に達する。
上村勝彦 訳


すべての欲望を捨てて、願望がなく、「私」「私のもの」という思いを持たずに行動する者は、平安の境地に達する。
熊澤教眞 訳

  • 12章13節&14節

すべてのものに敵意を抱かず、友愛あり、哀れみ深く、「私のもの」という思いなく、我執なく、苦楽を平等に見て、忍耐あり、(13節)
常に満足し、自己を制御し、決意も堅く、私に意(こころ)と知性(ブッディ)を捧げ、私を信愛するヨーギン、彼は私にとって愛しい。(14節)
(上村勝彦 訳)


何物をも憎まず、万物に友好的で慈悲深い者、「私」「私のもの」という思いがなく、苦しみも喜びも淡々と受け入れて、寛大であり、(13節)
いつも満足し、瞑想に励み、自己を抑制し、堅い信念を持ち、心と知性を私に捧げて、私を信愛する者は、私にとって愛しい。(14節)
(熊澤教眞 訳)


両節の「I Me Mine」該当部分は
nirmamo nirahankarah
nir は 英語の no、日本語の「なし」なので、
no マーモー no アハンカーラ
マーモーはマイ(マイ・ブームのMy)  アハンカーラはエゴです。



nirmamoは3章30節にも出てきます。

すべての行為を私のうちに放擲し、自己(アートマン)に関することを考察して、願望なく、「私のもの」という思いなく、苦熱を離れて戦え。
(上村勝彦 訳)


すべての行動を私に捧げて、真我に意識を集中し、願望を持たず、私のものという意識を持たず、熱情を払って戦え。
(熊澤教眞 訳)

3章30節の最初の「私」はクリシュナで、神にささげろという意味。後者の「私のもの」が nirmamo です。


いずれの節も、沁みますね。
ジョージ・ハリスンはバンドに入ったらポールとジョンがいたわけですから、なんというか、ベンチャー企業に仲間入りしたらビル・ゲイツスティーブ・ジョブズが同僚だったみたいな状況の中で創作をやってきたんですよね。俺の曲もアルバムに入れろーーー! という叫びが聞こえてきそう。もうこうなったらクリシュナに捧げるつもりで創るという境地でしょうか。創作する人には、特に刺さるんだろうなぁ。
一般庶民の仕事でも「アレオレ詐欺」(リンクはWeblio辞書)なんて言葉があるくらいですから、刺さるわけなんですね。
以前ギーター会でこの節(3章30節)を選んだ人は、

小学生の子どもが「なぜ勉強しなければいけないのか」と問うてくる。「あなたのためよ」と答えようにも、しっくりこない。「今はとにかくつべこべ言わず、与えられた行い(勉強)を執着や結果(受験の合否やテストの結果など)に縛られずに全力でやるのだ、息子よ!」と答えた方がしっくりくるな、とこの節を読んで思った。

とのこと。
ホントに言ったら、どうなるかな…。意外とこんな感じで言ってる人、多いと思うんですけどね。昭和すぎ? でも「かーちゃんに言われたことを疑問に思いながら、やった」ということもひとつの経験になるんですよね。さぁ母はクリシュナになれるのか。本格的な夏休みの始まりに、そんなことを思いました。



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