うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

アシュタンガ・ヨーガインターミディエート・シリーズ ― 神話・解剖学・実践 グレゴール・メーレ 著(GAIA BOOKS)


ヨーガ全般の復習を兼ねて、ガイアブックスの本を何冊か立て続けに読んでみたのですが、この本は「アシュタンガ・ヨーガ 実践と研究」の続編で、アーサナの説明はよくセカンド・シリーズといわれているものです。
前編にくらべて神話学がとても充実しています。アシュタンガのセカンド・シリーズの本となると、かなり上級編の印象を受けてしまうと思うのですが、インド思想を学んでいる人には得るものの多い一冊と思います。なにがいいってね、ちょっと説教口調が入るところがいいんです。西洋人に対してちょっと説教くさいの(そこかい!)。
それはさておき、神話学の部分はかなり広範囲のインド聖典や叙述詩からルーツを紐解きながら、丁寧に解説されています。アーサナ名になっている人物の説明のほか、タントラの説明も簡潔ながら秀逸な文章です。アーサナの後屈の説明部分にあった、フロイトなどの心理学者の説く「口唇期」と連動した説明も興味深かったです。

<2ページ ジュニャーナ、バクティ、カルマ ─ ヨーガの3形態 注釈部より>
リシという言葉はヴェーダとしっかり結びついている。仏教徒やタントラにおいてのリシはいない。

そういえばそうだなぁ、なんてことからはじまり、ヨーガの学びで「omは聖音」「へー」という感覚的理解のあとに必ずやってくる「ブラフマン」への疑問が、親切な説明に全方位的な注釈を加えて展開されていました。


少し長いですが引用します。

<19ページ ブラフマン より>
 ウパニシャッドは、ニルグナ(nirguna、属性のない)ブラフマンとサグナ(saguna、属性のある)ブラフマンの両方について語っている。
これは2つの異なるブラフマンがあるという意味ではなく、人によってどちらの考えでブラフマンに気づけるか、が問題なのである。
 ニルグナの考え方によると、ブラフマンは無形で無限の絶対的なものである。この無形の意識に投影される属性はどれも、すでに現れている相対的世界のものである。どんな属性も永遠にはなりえないので、どれも本当にブラフマンを表すことはできない。この考え方は、(ブラフマンとは呼ばれていないが)仏教のほとんどの宗派と、シャンカラのアドヴァイタ・ヴェーダーンタ学派においても信じられている。イスラム教もこの考えを共有していると言える。イスラム教は、人間による表現はどれも神を汚すものと考えているので、至高の存在を表現することを ── それどころか、至高の存在に属性を与えること一切を ── 禁じている。


(中略)


 無形の絶対的なものを崇拝することができない、またはしたくない人 ── おそらく現代人の大部分 ── のために、形のある(サグナ)ブラフマンがある。ブラフマンに形を加えると、しばしばイーシュヴァラ(Ishvara)と呼ばれる至高の存在に到達する。イーシュヴァラという名前はふつう、特定の神を意味するものではなく、パタンジャリが至高の存在に使った名前でもある。彼はそれにほとんどの属性を与えていない。とはいっても、至高の存在は聖音オームを発し、人間とは異なる形の意識であり、全知であって時間に限られることはなく、そしてヨーガの創始者であることを、パタンジャリが説いているのは確かだ。ここに列挙したものでは、至高の存在が何であるかについてごく曖昧なことしかわからず、至高の存在について瞑想するときに使うべき形は限定されない。

この文章はこのあとイーシュヴァラの三位一体表現(「創造神ブラフマー」「維持神ヴィシュヌ」
「破壊神シヴァ」)についての説明に入っていくのですが、そこの注釈に「形のない絶対的なものであるブラフマンと混同してはならない」とあり、注釈に以下の補記がありました。

  • イーシュヴァラは1000あるシヴァ神の名前の1つにも挙げられているが、本書ではその意味でこの言葉を使用しない。
  • 文法的にはブラフマンは男性であり女性であり、同時に中性でもある。

イーシュワラというのはシヴァにルーツを持つものと習うこともあるのですが、「ヨーガ・スートラの中のイーシュヴァラとは、パタンジャリが至高の存在に使った名前」とあらためて明記されるとすっきりします。




わたしはこの本で「クローダ・ヨーガ」という言葉を知りました。なんというか、痛み恨みヨガ。

<38ページ シャラバーサナ(バッタのポーズ)の神話説明部分より>
(以下は『マハーバーラタ』の『アーディ・パルヴァ』のエピソード説明)
 聖仙の一団はジャヤーとヴィジャヤーに恐ろしい呪いの言葉を発し、彼らは生涯アスラ(悪魔)として地上をさまよい、師であるヴィシュヌ神を憎む活動に携わることになると宣言した。
 絶望したジャヤーとヴィジャヤーはヴィシュヌ神のところに行き、聖仙たっちの呪いを解いてくれと請う。ヴィシュヌ神は。2人が間違ったことをしたのだから、解くことはできないし解きたくもないと告げ、2人はいつもヴィシュヌ神のことしか考えていなかったから、今からクローダ・ヨーガを実践することになるのだと言った。クローダ・ヨーガは、選んだ対象に、愛ではなく憎しみを通じて、一心不乱に集中した状態に到達する実践である。(クローダ・ヨーギはバクティ・ヨーギと同じように、最終的に集中の対象になる。しかし、その過程でバクティ・ヨーガは歓喜を与えるのに対し、クローダ・ヨーガはひどい痛みを与えるという大きな違いがある。)

恨み節を唄え! と。大人になると沁みる、深い救いのある話だと思いませんか。
恨み節の頃の梶芽衣子ってステキですよねという話ではなく。




マハーバーラタ』に出てくる、クローダ・ヨーガの記述もありました。

<47ページ バカーサナ(鶴のポーズ)の説明部分より>
(「バカ」は悪魔の名前)
 クリシュナは落ち着いてバカが近づくのを待ち、バカが襲いかかる直前に、その開いたくちばしをつかみ、空中に持ち上げ、真っ二つに引き裂いた。クリシュナとバララーマが家に帰ると、村人とたちはみなクリシュナの強さに驚嘆する。彼が至高の存在以外の何ものでもないことを、彼らは知らなかったのである。(クリシュナは自分の能力を見せすぎないように、そして周囲のみんなと同じ人間に見えるよう、細心の注意を払ってきた。)
 クリシュナが大人になってかなり年月が経ってから、悪魔バカが実は憎しみのヨーガであるクローダ・ヨーガを実践する信奉者だったことが明らかになる。神を滅ぼすことに集中することによって、バカは彼に引き寄せられ、最終的に師の手にかかって死んだ。そうして彼と1つになったのである。

スター・ウォーズ……




アーサナ名のルーツも、知ると楽しいです。

<53ページ ドウヴィパーダ・シールシャーサナ(両脚を頭の後ろに持ってくるポーズ)の説明部分より>
ヨーガニドラーサナのポーズは、時代が終わる大崩壊のとき、原初の海の巨大な波に乗った世界樹の葉の上に寝ている、赤ん坊の姿をしたヴィシュヌ神を象徴している。

脚が世界樹の葉の役をやっているのかぁ。おつかれ〜。




アーサナ名になっている人物の説明も興味深いものでした。

<47ページ バラドヴァージャーサナ(聖仙バラドヴァージャに捧げるポーズ)より>
 ヴァラドヴァージャは聖仙アトリの息子で、『ラーマーヤナ』の著者である聖仙ヴァールミーキの弟子である。そして人類最古の聖典である『リグ・ヴェーダ』の大部分を著した。さらに『ダルマ・スートラ』、『シュウラタ・スートラ』の著者でもあり、文法学者パーニニが言及しているがもはや存在しないサンスクリット語の文法書も書いている。ヴァラドヴァージャは最初のアーユルヴェーダ創始者であるとも言われている。

盛るなぁ。インドっぽい。



<50ページ アルダ・マッチェーンドラーサナ(半分のマッチェーンドラナートに捧げるポーズ)の説明部分より>
サンスクリット語学者のアゲハーナンダ・バラティによると、マッチェーンドラナートは『ゲーランダ・サンヒター』の著者でもあるため、ゲーランダとも呼ばれる。

インド思想の諸説の話ではあるけれど、本当だったら「ゴーラクシャ・シャタカ」よりも「ゲーランダ・サンヒター」のほうが先なのっ?! ということになる。



<50ページ コラム「ヴェーダとタントラ」より>
 タントラの儀式は、自分の転落につながりかねないものはすべて、自分を高めるために使うこともできるという原理に従っている。したがってタントラに間違った教えはなく、一部の弟子にふさわしくない教えも、別の弟子には適しているかもしれない。タントラの手法は、道徳的規範に合致するかどうかではなく、結果を出すかどうか、すなわち実践者にシッディと悟りをもたらすかどうかで評価される。西洋人はタントラがスピリチュアリティに官能性を持ち込んでいるので歓迎しているが、伝統的なインドの考え方では、タントラは官能的な人間にスピリチュアリティの手ほどきをするものである。

またここで理趣経の話を持ち出してしまいますが、「一部の弟子にふさわしくない教えも、別の弟子には適しているかもしれない」という教えの、お経だけを貸すことなんて、できんわーい! という空海さんの苦悩を妄想する。




以下はアーサナ部分より。
いきなりズシンとくるやつ、いきますよ。

倒立の練習において「壁はタマスの物体であり、フィードバックができない」(184ページ)

なんて具合です。



翻訳本ならではの表現に、ちょいちょいツボにハマってしまうところがありました。

<143ページ エーカパーダ・シールシャーサナの説明部分より>
脚が長ければ長いほど、ポーズに入るのに脚を深く曲げるので、必要なハムストリングの柔軟性が少ない。

脚が短いとその分伸ばして持ってこないといけないから大変だろ、おまえ〜。って、遠回しに言われたーーー! ぶーぶー!



脚が短いと大変なんだこれ。ああそれはもう大変さ。



<113ページ ベーカーサナの説明部分より>
正しく良識的に行えば、ベーカーサナとヴィラーサナとスプタ・ヴィーラーサナはすべて、膝蓋骨の噛み合わせを改善する傾向がある。

膝の噛み合わせという概念が新鮮でした。特に男性に「ここが詰まって膝が伸びない」と言われることがある状況への気づきになりました。なるほど、隙間をつくるアプローチで整えていくのか。



アーサナの説明でフロイトなどの心理学者の説く「口唇期」と連動した説明も興味深かったです。

<110ページ 後屈のシークエンス より>
 後屈しやすい傾向はしばしば、ヴィルヘルム・ライヒとアレクサンダー・ローエンが「口唇期性格」と呼んだものを伴う。口唇期性格は相対主義、ヨーガの言葉でいうとイダー(月または左の鼻孔)を通る余分なプラーナの流れに結びつく。
相対主義者と口唇期性格は、別の人の立場に対して、たとえその立場が潜在的に危険なので拒むべきであっても、「はい」と言って受け入れる傾向がある。この性格は、他人や自分の間違った行為をなかなか排斥できない。


(中略)


 母親との絆が足りないと、大人になって受け入れる姿勢を示すことができなくなると考えられている。私たちの経験では、開放的な後屈ができる人は他人を無条件に受け入れることは容易だと思っている。そして、後屈の上達が寛容で思いやりのある性格の獲得と関係していることは、少なくとも逸話のレベルでは明らかである。


(中略)


 とはいえ、開放的な後屈ができつ人がみな誠実で情愛深い人間とは限らないし、後屈があまりできない人はわがままで情緒不安定でけちであるとは限らない。後屈をしているとき、その姿勢と関連する資質や特性を思い浮かべると、後屈が上達するようである。

全面はげしく同意ななか、この三段オチが面白すぎます。
後屈と寛容の関係については、わたしも記憶をさかのぼれる限りで7年くらい観察していますが、「反れている」という総合的な感覚と「腰が」「胸が」という切り分けは大いに違う。とても寛容になれない状況のときこそ、腰が前に突き出る勢いが強く、「反れている」という状態に見えたりするのでね。



<116ページ ダヌラーサナの説明部分より>
仙骨は脳脊髄液(CFS)をくみ上げるメカニズムの一部として働き、CFSはいろいろな意味で脳と脊髄を正しく保護し、機能させるものなので、後屈のときは大腿骨が外に回るのを避ける必要がある。大腿骨が外に回ると、脳脊髄液の脳への流れが妨げられ、知的、身体的、およびスピリチュアルな潜在能力が弱められるからである。

先の引用部分のコメントと関連するのですが、ここも激しくうなずく部分。側弯の増長になってしまう動きとも連動しているのだろうなぁ。



<123ページ カポターサナの説明部分より>
 後屈を深めるとき、ただ骨盤を後ろに倒して恥骨を前に突き出すことは避ける。この方法は安易な抜け道である。ストレッチっちが脊柱の硬くて曲がりにくい部分ではなく、柔らかいところだけに入ってしまう。身体ヨーガの原則の1つは、弱い部分を支え、こわばって閉じている場所を開くことである。恥骨を前に突き出すだけでは、胸が開くのを止めてしまうだけでなく、腰部と仙腸関節に必要以上の圧力がかかる。

先の二つの引用の、さっくりとした結論まとめ。




後屈の話はまだ続きます。

<124ページ カポーターサナの説明部分より>
手が足に届いたら、足の裏の上に手を這わすのは間違いである。そうではなく、足の外側を歩かせる。それが難しいい場合は両足を少し寄せる。自分の柔軟性の限界まで来たら、手を内側に動かし、足、かかと、または足首をつかむ。肘を地につけ、前腕を床にしっかり押しつける。
 深呼吸をするとき、息を吸うのは胸椎を徐々に伸ばす(反らせる)ことだと考え、息を吐きながら軽く腰椎を伸ばす。まっすぐな姿勢で立っているときも、呼吸はつねに脊柱を上ったり下ったりする穏やかな共振周波数になる。それが脊柱の健康のしるしである。カポーターサナではこの流れを利用して、息を吸うときに背中上部の弓形を大きくし、息を吐くときに腰部の弓形を大きくする。ゆっくり時間をかけてこの手法をうまく使うと、後屈がさらに深くなる。

これきっついわー。



脚を頭の後ろに持ってくる系の話。

<139ページ 脚を頭の後ろに持ってくるシークエンス より>
 後屈が体の前面(口の開口部は前面にある)を伸ばし、「はい」を言う力を高めるのに対し、脚を頭の後ろに持ってくるポーズは体の背面(肛門の開口部は背面にある)を強め、「いいえ」という力を高める。柔軟性の度合いによっては、かなりの重みが背中と肩にかかる。それによって背中が強くなるが、責任の重さを負う能力も高まる。脚を頭の後ろに持ってくるポーズでは、抵抗に逆らって脊柱をまっすぐに立てることを覚えるので、このポーズは、道を誤らせるような力に遭遇しても、動じないでいることを教えてくれる。

自分対自分の要素もあると思う。道を誤らせるような力をかけている脚の痛みも感じているから。自分が自分にかける圧力を意識できるのは、ヨガのひとつの学びどころでもある。



<156ページ アームバランスのシークエンス より>
 体重を肩で支えられる能力は、人生のあらゆる状況で自分を支えられる能力、必要とあらば他人の意見や判断に頼らず自主性を貫く能力と関係している。肩は、人生の重荷と責任を負う力にも関与する。アームバランスは自信がなくて悩んでいる人を助けることが可能である。しかし今日の世の中では、誰もが自信を求めているが、能力を身につけることに精進する人は少ない。

最後のちょっと説教くさいのもいいでしょ。



<159ページ ピンチャ・マユーラーサナの説明部分より>
まだ十分に開いていない肩関節でアームバランスの実践を始めると、もはや深い後屈を達成できないことになる。なぜならこの先、後屈の開きは、アームバランスの背中を安定させる効果によって中和される。そのため、頭立ちのようなポーズの実践は、カポーターサナのようなポーズを実行できるくらい後屈が開くまで、先に延ばすべきなのである。

これを言い出すと、ずっとチャレンジする機会を得られない人が増えてしまう。カポーターサナはハードルが高いなぁ。でもたしかに胸と肩の開きの準備運動は、しつこいくらい必要。



随所に「うわー。見抜かれた」と思うような身体論が登場するので、「説教されながら勉強したい」という人におすすめ。
半分くらいしか理解できなくても、そもそも2冊分くらいの叡智がぎっしり詰まった一冊なので、そこんとこは気にしなくてよいと思います。メガ盛り、ギガ盛り、いやテラ盛りくらいの情報量です。

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