これはわたしのもつ傾向から発生する話題です。すべての人にあてはまる話ではありません。
いきなりカミングアウトしますが、わたしはあのわざわざやるラフター・ヨガ(笑いヨガ)というのがあまり好きではありません。過去に何度かそれをやる機会に遭遇したのですが、ファシリテーターの技量うんぬんの問題ではない気がしています。
「やってみればわかる」「ヨガは体験して感じるもの」。デスヨネ。ソレ、ヨガノキホンデスヨネ。なので、笑いヨガも実際やってみて、わかりそうなことまではわかるんです。謳いたい効用も、身体論としてわかります。
でもわたしの場合は「それをやる」となった瞬間、胸椎7番からスタートして上下に硬直の侵食が拡がり始める。頭が先に嫌がってるのか、心が嫌がっているのか、わからない。だがこのムズムズは、身体が防御体制に入ろうとしているあの感じである、というのがわかる。
この経験から、いまのところ身体主導で考えるようにしています。
胸椎7番へのアプローチは、
その人の頭と心がけんかをせずにすむ
限りなく自然に近い方法を探そう。
いくつか、自然に見えてきたことがありました。
「ほんとうは気乗りしないのだけど、心と身体にいいということだから、やろう」
と、頭のほうでマウントしにいこうとするとき、
これを受け止めるのが、胸椎7番とその上下。
同じように
「ワクワクはしないけど、身体にいいらしいからやろう」
と、頭のほうでマウントしにいこうとするとき、
これを受け止めるのが、表層の筋肉痛。
やってみたら気持ちよかった。といわれる結果になるヨガは、胸に負担をかけない。筋肉痛も、sweet pain。「ほんとうは気乗りしない」ところから強引にもっていく技術というのは、映像や音声でしか感じたことがないけれど、日本人では
中村天風 沖正弘
この先生たちのド迫力は、笑えるほど。おっとここでラフターヨガがっ!
「ぜ・つ・た・い・せ・っ・き・ょ・く・で・あ・り・ま・す!」っていう、ああいう感じの風を生む力がある人は、現存の人材では猪木か松木か修造かドアラ師匠しか思い浮かばない。(最後のだけコアラですが)
「ラフター・ヨガ」といって、ヨガの一種類としてカタカナにされても、わたしの胸椎7番は、やはり硬直してしまうのです。「○○ヨガ」という名前があるものすべてに言えることかもしれません。
インドにいるとできちゃうってこともあるのですが、わたしはいつも、ひとの身体も自分の身体も、環境も含めたユニバーサル・ボディとして観ます。方法論だけ持ってきてもうまくいかない要素があるなら、環境ごと考える。
インドから持ってきた技術=ホンモノ
というのは、真空パックと同じ考え方なんだけど、それが身体に美味しいかというと、そうとも限らない。
知らず知らずに沁みていく、ローカライズされた身体観。
ヨーガの古典を紐解きながら、
インドの風土や暮らし、身体の使い方を想像してはみるけれど、
自分の暮らした国の風土のなかでの身体の使い方は、
いまここにある身体として観る。
いったんギュッと身体を縮こませてパッと離す「身体の弛緩づくり」は、やってみると至極納得の技術なんだけど、心や感情が身体を引っ張ってしまうことは、あるある。あるよー。むしろそれが普通。
盗ぅっすん〜だヴぁーイクで走っしりだすぅ〜♪
と聴くと
「捕まるョ☆」
と、前後関係に関係なく、その瞬間、そう感じる。
あとで捕まっていそうなイメージを、無理やり消去することができない。
それわかってて盛り上がるところなのか、つかみかねる。
この感じ。わかりますかね。
そういうの、ない?
わたしは、ラフター・ヨガをやりながら、同時に「実はぐったりしているタマスの存在がなくなっていないこと」から目を逸らせない。わざわざ拾いにはいかないが、なかったことにするのはしんどい。なかったことにしようと思うとかえって重くなるのはなぜだー! と、わたしのなかの小さなムンクが叫びだす。
えっと、きょうは
「笑うのもグレるのも、けっこう大変」という話なのでした。