うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

イスラームの礼拝 みんなで礼拝、ひとりで礼拝

コタキナバルには州立モスク、市立モスク、町のモスクがあります。モスクというのは英語で、アラビア語ではマスジド、マスジッドといいます。寺をヴィハーラといったり、道場をアシュラムといったりするような、そういう違い。
祈りはモスクに来ずとも仕事場や自宅で、自分のできるところでやるそうで、「1日5回×5分だから、25分ね」とモスクの方がおっしゃっていました。わたしは町のモスクの近くで過ごしていたので、「12時半と18時半くらいにいつもコーランが聞こえてくるなぁ」という感じで、時報のように聞いていました。


礼拝の時間は入れてもらえないのかな、と思いきや、ちょっと離れたところで見ているぶんにはなにも言われず、それどころか通りすがりの男性に目で挨拶されたりウインクされたり、グーッのポーズをされたり。マレーのムスリムさんたちは静かに陽気な感じで、女性たちも、こちらが会釈をすると「あら、観光にいらしたのね、うふふ」という感じで、服装のせいもあるけど、なんだか上品で色っぽい笑顔を返される。トゥドゥン割り増し(参考)。



以前本で読んで知ってはいたのだけど、ほんとうに、人々がくっついてお祈りする。


これは州立モスクのお昼の礼拝。



超・サージェント・ペパーな動画


コーランが流れる時間でなくても、都合のつくときにぽつぽつと人がやってきて礼拝をしていく。ここからは、市立モスクでの光景。




手足の長い少年が、頭を下げると小さくなる。肘の立て方がきれい。
この少年の礼拝は、まるでゆったりとした美しいダンスを見ているような、そんな雰囲気をまとっていた。


この紳士は





お仕事の合間にいらっしゃったみたい。



不思議だったのは、この光景。


祈りの空間はとても広い。
なのに・・・






3人の男性が礼拝をしていたところにひとり増えて、「遅れて混ざったのは会社の同僚さんかな」と思っていたのですが



もう一人来て、はじめはちょっと離れていたのに





だんだんくっついて、はじめからみんなと一緒にいた風、になっていく。



遅れた人もきっちりこなすので、輪唱のようになっていく。
帰りはそれぞれ。



コタキナバルのモスクで、このことについて視覚的に考えを促されることがよくありました。


「袖振り合うも多生の縁」


喩えではなく、本当に袖振り合うような光景。
横一直線にくっついて並んで礼拝をすることで、同朋意識が高まるというのを本で読んで知ってはいたけれど、この空間の中で大人の男たちが寄り合うほっこり感には、なんだかもうちょっとあたたかいものを感じる。
「袖振り合うも多生の縁」(参考:「多少」ではない)ということわざは、仏教の「輪廻転生」「因果応報」の考え方が背景にある。イスラームは、輪廻転生の概念がない。因果応報は、めっちゃある。
細かいことはさておき、この光景はことわざと視覚的にフィットする。前世来世の縁よりも、「いま同じ目的でここに居る僕たち」というシンプルな同朋感。



ちびっこは礼拝のディテールがゆるいので、コマ漫画のようになる。
かわいらしい少女たち。


礼拝しよっかー。しよー、しよー。



えっと、こうやって



おじぎー



いっかいめのお休み(崩れすぎでは……。でもこれがいちばん揃ってた)



あなたたち、ちゃんとやってる?



お小言いわれちったー
(ちなみにここでも途中でひとり増えました)




大人も子どもも、「つるんでる」という感じではなく、それぞれが同じ目的で来てるという感じが全体にただよう。



とにかく子どもたちの礼拝がかわいくてしょうがなかったのですが、やっぱり大人になると、急なセッションでもまとまるもんだな。と思いました。