うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

市立モスク(City Mosque)その4:談話編

概要編食事編運営編に続き、談話編です。
市立モスクでは運営者のかたとお話がはずみ、「ちょっとオフィスで話しましょう」ということなりました。SYEDさん(このモスクのマネージャーさん。BENDAHARIというらしい)が話してくれたことがものすごく面白かったので紹介します。


SYEDさんとはモスク横の食堂で知り合ったのですが、話し始めの時点で「宗教はその極端な側面でとらえられがちだ」という話になり、「日本で15年前くらいに起きた、でっぷりした口ひげの男(オウム真理教)もそうですね」と。この思いは心にしまって出かけた旅だったのだけど、思いがけずSYEDさんのほうから投球され、びっくりしました。
お互いの国の習慣のことを雑談したあと、「なぜ祈るのか」「なぜ断食をするのか」「アリー以降の歴史」「30年間の間にムハンマドが変えたアラブの歴史」などなどのお話をしてくれました。


わたしは礼拝をずっと見ているうちに質問がいっぱい浮かんでいて、動きを真似しながらそのことを話したら「身体動作としての礼拝」という視点で




礼拝の動きは、普段25%しか使われていない脳へ送る血液の流れのために、また背筋のリラックスのためにもいいんですよ。



このときは、できれば足首を立ててね、などのことをご指導いただきました。(ヨギ向け仕様!)



(ちゃんと立てている人の動画)



礼拝の時間についても、「時計がなかった時代の知恵」として、影の長さが1倍、2倍の時間で設定されていることなどを


絵や図を描きながらお話いただきました。(写真はわたしのノート)
砂漠を移動しながら生きてきた人たちの、時と方角を知る知恵。




イスラームの習慣と科学」の視点で、話はどんどん盛り上がります。



なかでもいちばん印象に残ったのが、イスラームで禁忌されている「ブタの話」です。
砂漠の宗教なので、部族が減らないように考えられた衛生的な知恵であるとされていたり、元となっているユダヤ教時代からの知恵のなごりと考えられているのですが、「なぜ豚は "ことさらにダメ" なのか」というところでちょっと面白い小話をききました。
フランクな会話で、「これが全てではなく、完全にこうだよ、という話ではないからね。でも、こういう考え方があるんだ」といってお話ししてくれた内容です。
禁じられている食べ物は、その動物の性格に理由があるというお話。



イスラームには五範疇論というのがあり、「ダメ」にもレベルがあって「禁止」「禁止ではないが、行わぬことがのぞましい」という段階があります。
そのなかで、豚は「絶対にダメ」なのですが、なぜか。

たとえば、豚の夫婦が歩いているとします。
そこに、別のオス豚がやって来た時、どうなるか。


このとき、夫の豚は特に気にせず、ケンカにならないのです。
妻の豚が横でそのオス豚とどうなっていようと、そのまんま。


他の動物だったら、けんかになるでしょ。
でも、豚は「そのまんま」なんです。

なんと!
この話にはびっくり。


そうしたら、おまけのお話も。

カニも、絶対ダメではないけれども、食べないほうがいい理由がありますよ。

なぬー?!


カニは、何でもよく食べるんです。
死んだものも食べる。
ほかの生き物は、なるべく生きたものを食べようとするけど
カニは、死んだものもあれば食べる。

絶対にダメとはされていないのですが、食物を身体に入れることについての考えでいうと、蟹もよくないと。雑食っぷりが、「ダメ」の要素なのだそうです。


豚は「節操のなさ」という性質を、食べ物を通じて体内に取り込むことがよくない、と。
お酒が禁じられる理由との関連性もしっくりきます。「祈りの気持ち(下座の心)を忘れてしまう」という理由です。
「魂を身体に取り入れる」という考え方でいうと、「殺される時の恐怖と怒りの感情を体内に取り込むのはよくない」と考えるヒンドゥーイズムやヨーガと似ています。


取り込む成分として禁忌するものが「怒りや恐怖という感情」なのか「節操のなさ」なのかの違い。



このあと
「おいおい、豚って、ひどく節操がねーな」というのを発見した人って!
と考えたら一瞬楽しくなったのですが、とはいえ豚もアッラーがお創りになったもの……。
と、コーラン・ブーメラン状態に陥りました(最近よくやってる)。


イスラームは、ヨーガやヒンドゥーと同じように「聖なる科学」として、とても興味深い。なかでも天文学的なところ、数学的なところが身体の外で発展しているのが、体内宇宙や精神世界へ向かうヨーガと対照的。インドの「"無い"という状態が有る」というゼロの発見もすごいけど、「アルゴリズム(al-khwarizmi)の語源は9世紀バグダードの数学者アル・フワーリズミーだったりする。(「アルゴリズム」のWikipediaを見るとおもしろいよ)
そして日本のことを思うとき、四季や花鳥風月を愛でてきた国であることを思いながら見つめていくと、それは「無宗教」なのではなくて、「こたえは季節に乗ってやってくる」という「おまかせ感」。
これは恵みだ! とおまかせ感覚で毒キノコを食べて残念なことになって、それが知恵になって……ということを繰り返してきたんじゃないかな。数学は強くなかったかもしれないけど、「いいことも悪いことも諸行無常のなかにある」ということを、自然から学んできた。きっとそうだ。



それにしても、「節操のない生き物を食べると節操がなくなっちゃう」というのは面白い。
そしてブタといったら、「猪八戒」。西遊記のなかにも(世代的に、マチャアキ版です)、八戒が旅先の女に "とりあえず惚れる" ところから煩悩と学びのストーリーが始まるものが多い。
これまでこんなに「節操」という単語を何度も使ったことがなかったのだけど、あらためてこの二つの漢字をじーっと見てみると、とてもヨーガっぽい。
「煩悩を絶つ」というよりも、「節操のディテールを認識できるようにする」というほうが身近だ。まるでライフハックだ。

イスラームは懐の深さよりも広さに特徴があるなと、あらためて感じるのでありました。