インド旅行をした人がする話のフレーズに「インドに行ける人間とインドに行けない人間」というのがあり、わたしもかつてこのブログにコメント欄を設置していた頃にそのニュアンスを含んだ書き込みを見たことがありましたが、その元ネタを知ったのは三度のインド旅行の後でした。
この本の中のやりとりが、たぶんインド旅行者やバックパッカーの間で「時期が来た」というニュアンスで受け継がれているのではないかと思います。
「インドに行ける者と行けない者」の話が載っている本です。この本の中で回想されている三島由紀夫×横尾忠則のやりとりは60年代で、前者はビートルズと同じ時期にインドへ行っており、後者はスティーブ・ジョブズと同じ時期にインドへ行っています。そういう時代だったのですね。
インドに行ける者と行けない者の話をした三島由紀夫
いまの感覚で「インドに行ける者と行けない者」と聞いたら「過去の履歴から入国させてもらえない(ビザが下りない)」とか「おなかをこわしやすい健康上の理由」などを想起すると思うのだけど、それは旅行先として行きやすくなってからの話。
この本の中で「行ける・行けない」の二極で語られるトーンが「呼ばれる・呼ばれない」という言いかたをする高野山と似ているのか違うのかわかりませんが、まだ引き寄せというワードは流行っていない時代でも似たような感覚で話されていたことが、本の内容から伝わってきます。
これをあらためて発言者の三島由紀夫の状況から見てみると、ちょっと驚きます。三島由紀夫はインド政府に呼ばれてインド旅行をしています。ものすごく社会的に評価されて呼ばれています。この日本人作家、ノーベル文学賞を獲るんじゃないの? と期待されるほどの成功者であるときに呼ばれています。ご夫人と一緒に旅行をしています。
この作家として成功した人の言う「呼ばれた」を、間にひとりビッグネームの画家を挟んで、一般旅行者が踏襲して話している。
── さすがにそれは、いろいろすっとばしすぎだわ!
こういう伝達のマジックっておもしろいなと思うと同時に、三島由紀夫の時代を読んだ言葉の感覚におののきます。人がなにかを求める気持ちから勝手に膨らんでいく空気までわかって操っているかのよう。
雑誌「婦人公論」に連載されたという以下の小説を読んだときも…
雑誌「プレイボーイ」に連載されたという以下の小説を読んだときも…
ものすごく読者層の心理世界に寄ってくるのね! と思っていたので、「こういう物語がお望みですよね。ちょっと意外性も加えて飽きないように読みやすく仕上げておきましたので、どうぞ」と先回りして差し出されたような恐ろしさを感じます。呼吸をするようにマーケティング・センスをはたらかせている人って、いるんですよね…。
政府に呼ばれてインドへ行った話は、以下の本で知りました。
同じ気になっちゃいけないぞ調子に乗っちゃいけないぞと思う瞬間は日々たくさんあるけれど、なんとなく使っているフレーズこそ罠。
この種の自己顕示欲を言語化する本谷有希子
こういうことに気づいたときの恐ろしさって、ハッとしてギャーッとなっても恥ずかしくて他人と共有できないまま自分の中でわだかまりになっていくのだけど、昨年この "ハッとしてギャー" の感覚が見事に呼び起こされる小説を読みました。
この種のエゴを言語化した小説は、ずばりこれ。
そんなこんなで今日は7冊、過去に読んだ本を紹介してみました。気になるものからどうぞ☆