うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

想定しない動きや存在を許せないと思うこと

キンチョール
つい先日、ある建物から出ようとしたときに足元にゴキブリがいたので、足でいざなってエレベーターに乗せて、一緒に一階まで降りた。ヨガ友のユッキーが一緒にいたのだけど、「なんでなんで? キャー」となっていた。
「ゴキブリ、イヤだよね。またここに来ると思ったら、そのときにいないほうがいいよね。放っていくほうがイヤじゃない?」と言ってエレベーターに乗せたのだけど、彼女はただただ、パニック状態。
その場で殺して捨てて欲しかったのかな。パニックなりに理想があったのだろう。


同じようなことが、先日家でも起きた。
蚊だかハエだか蛾だか覚えていないんだけど、こんなことがあった。


 父:うちこや、虫が一匹いるだろ。
 娘:いるねぇ(もぐもぐ。ご飯中)。
 父:あいつをなんとかしたいんだけど、ずっといるんだよ。
 娘:そお。
 父:うちこは気にならんのか。
 娘:ここは地球だからねえ。


そんなに深く考えて話していない。相手はアル中の暴君だ。
「昼間も酒を飲みながらイライラしていたのかな。この虫と長時間一緒にいて、そういう気分になっているのだろうな」というのは多少察した上での返答だったのだけど、父は勝手に感激していた。


嫌と思うことも、いいと思うことも、「極端」な人だなぁ。だから自分の毒が回っちゃうんだよ。
「想定しない動きや存在」がない状態を前提にしすぎだよ。と思う。


自分はどうであろうか。
まだ30代前半で、これから何度も恋も結婚もできよう年齢で、(そこそこ引き合いもある状況で)
親の精神的介護生活(金銭的にもだけど)をはじめることが「想定しないこと」だっただろうか。


そんなことはない。生まれてきた以上、親は存在するもの。
自分が幸せと思う生活をさせてくれる親だけが親かといったら、当然そんなことはない。
自分が生まれちゃった時点で、種付けした人たちは、親だ。物理的に存在する。


目の前にある存在を、自分の理想でないからといって存在しないことになんか、できない。
この存在があるから、いまの自分がある。今の自分は、自分で生み出した身体ではない。
まあ、親だけが生み出したものというわけでもないのだけど。


「イレギュラーなことに怒る人」を見る場面は、日常の中にすごく多い。
もちろん自分にもそういうことはあるのだけど、そのたびに「自分はなにを前提として勝手に期待をしていたのだろう?」ということを都度考えるようにしている。
そうするとたいがい、「穴があったら入りたい」ようなことになる。
生命の火を燃やすことをサボりたい、ということを認めることになってしまうから。


なるべくつまらない意地を張らずに自然にやっていこうと思っているのだけど、ここで意地をはらなくなったら、ゴキブリ以下が当確。ゴキブリさんの生命力はすごいから、そもそも負け試合じゃねえかってのは、置いておこう。
最近夏バテ気味なのだけど、イレギュラーはそんな状況とはまったく関係のないこと。
こんなときこそ、心でカバーしないと身が持たない。