うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

人間失格 太宰治 著


あのとき、ハワイへ行かないと言えてよかったな。そんなことを思い出しました。
あのとき、それができたこと。あの経験が、いまのわたしをこの世間に踏みとどまらせてくれているなと、たまに思い出すのです。
わたしは子どもの頃、親の会社の旅行でハワイへ行くというイベントへの参加を断ることができました。あのときは親に、なんと言ったのだったかな。いずれにせよ当時は恥ずかしくて本当の理由は話さなかったはずです。この場合の「恥ずかしい」は、シャイなどというカタカナでは置き換えられない種類の「恥ずかしさ」です。
当時のわたしはどういうわけか、親が便宜上の理由で自分に声をかけたと感じていました。ゆくゆく、あのときあの子に声をかけなかったという事実が残るとまずいから自分に声をかけているのだろうと思っていました。わたしのほかにいた同居の人はどうなのか。わたしと同様に誘われて行きたければ一緒に行ける前提になっているのか、それらの不明点についても質問する勇気がありませんでした。
子どもの頃は、家庭内で起こるこういうイレギュラーな案件がたびたび苦痛でした。義務教育とバカンスの食い合わせがよくない社会で起こる、まあありそうな悲劇。
わたしは小学生の頃、給食の時間にNHKの「おしん」を見せられるような道徳教育を受け、でも家の人たちはよく消費をし、ハワイ旅行の話なんかが持ち上がる。それらの両極の価値観の中でウロウロしながら、どこに居ても落ち着かない気持ちで暮らしていました。


わたし以外の血縁家族はハワイへ行きました。
わたしは “はじめての家庭内ギブアップ” を実行することができ、それまでにもギブアップしたいことはたくさんあったのだけど、このときはじめてできました。「人間失格」の主人公も裕福な家庭で幼少期を過ごします。彼はきっと、わたしと同じ状況であれば、一度は断ったあとで「やっぱり」と言ってハワイへ行ってしまう。そんな性格。出だしから嫌な感じしかなく、このひと大丈夫かな…大丈夫じゃないだろうな…という展開。


消費をポジティブさで押し切ろうとする大人が子どもに与える影響と破壊力は、すさまじいものです。
わたしの場合はそのあと親族の破産・分裂の気配を感じながら最悪のタイミングで負担をかける年齢で大学生になってしまい、ずっとどこか後ろめたく、30代後半で奨学金を返済し終えるまで中断無く就労し続けました。あのときハワイへ行っていたら、こんなはずではなかったのにという思いでグレていたのではないか。そんなふうに思うこともありますが、わたしだっていつ揺り戻しがきて人間失格になるかわかりません。いつも少し、自分の中にそういう危機感があります。


わたしは40歳を過ぎてからこの小説を読みました。先に「まんがで読破」のシリーズで読んでから小説を読みました。読み終えて、わたしの場合はこれを今まで読まずに生きてきてよかったと思いました。わたしにはうまくいかないことを環境や他人のせいにしようとする、ずるいところがあるから。
この本を若い頃に読んで「おもしろかった」とか「好きな作品」と言える人は、勇気があるなと思います。いまとても成功していて反面教師として語れるレベルなのか… どうしてそんなことサラッと言えちゃうの? 世の中そんなに寛容だっけ? 有名な文学作品ならオッケーなの? そんな疑問がわきます。
いっぽう、過去に読んでおもしろかった小説やおもしろかった映画を思い出すと、この「人間失格」が下敷きではないかと思えるものが多いのだから困ります。それだけ負のメンタルの最大公約数が計算されたような作品なのでしょう。でもこういう符合のしかたは、なんだかいやぁね。


最後の「あとがき」は添えずにはいられなかったのかと思う内容で、それも含めて話法として吸引力が強すぎます。だってわたしはこの小説のあとがきを見て、今まで自分でも忘れていたハワイのことなんかを思い出してしまったのだもの。そして、ここに書いてしまったのだもの。すっかり巻き込まれてしまった! あんなこと、思い出したくなかったし、秘密にしておきたかったわ!! こういうダサいやりかたは、ずるい。読み手が封印していた低俗な感情を解凍する。
小説家としてうまいというのは、こういうことなのでしょうか。いずれにしても、太宰治という人は思想家としての顔を持たない小説家なのだということがわかりました。


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太宰 治 バラエティアートワークス
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人間失格
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(2012-09-27)