うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

不安の力 五木寛之 著

五木寛之さんの棚はいつもチェックする。読むのは2000年以降の身体論的なことが語られているものばかりです。以前感想を書いた「愛について ― 人間に関する12章」で野口晴哉氏に受けた影響について語られていますが、この本でも「風邪の効用」を引き合いに出した記述があります。

いま「なんとなく不安」という状態を抱えた人の行動がなんらかの形で顕在化するということがあちこちで起こっていると思います。うちこにも、いまに限らず不安はいつも存在しているのだと思うのですが、「だと思う」という感覚は、道の横を流れる小川のようなものだから。そこに目がいって立ち止まることは年々少なくなっているのだけど、この感覚は、この本で五木氏が語っていることととてもよく似ていました。
そこであえて「立ち止まることをしなくなるというのは、自分にどういう受け入れ姿勢の変化があったのだろう」ということについて自問するきっかけになりました。それが一概にいいことではないと思うことがあるからです。それについては感想コメントを題材に記述します。


いつものように、いくつかご紹介します。

<16ページ プロローグ ぼくはこんなふうに不安を生きてきた より>
 不安とは、電車を動かすモーターに流れる電力のようなものだと、いつからかそう思うようになってきたのです。
 不安は生命の母だと感じる。それは、いいとか、わるいとか、取りのぞきたいというようなものではない。不安は、いつもそこにあるのです。人は不安とともに生まれ、不安を友として生きていく。不安を追いだすことはできない。不安は決してなくならない。
 しかし、不安を敵とみなすか、それをあるがままに友として受け入れるかには、大きなちがいがあるはずです。
 自分の顔に眉があり、鼻があり、口があるように、人心は不安というものがある。不安を排除しようと思えば思うほど、不安は大きくなってくるはずです。
 不安のない人生などというものはありません。人は一生、不安とともに生きていくのです。
 そのことに納得がいくようになってきてから、ぼくはずいぶん生きがたか変わったような気がしています。


(中略)


 不安は、まず人間らしく生きようと思うこころの余裕から生まれてくる質の高い感覚だと思うのです。
 不安を抱くことは、人間らしく生きていることだ。まず、そこから出発することを前提として、不安についていろいろ考えてみたいのです。

不安を持つ種があるというのは、とても大切なことのように思います。古くからうちこを知る身近な友達に「まだこの年齢なのにいろいろと経験しすぎて、平然とした人になった。老成している」と言われることがあって、いままでそれは別に悪いことではないと思っていたのだけど、「あきらめ上手」になりすぎることは、種火の力が弱まっているのではないか。ふとそんなことを思うことがある。
アル中で漠然とした不安を奔放に撒き散らすことができる父親のほうが長生きをしそうだ、と思う。意識がないときは、「パワーあるなぁ」と思うから。でもその根源に「不安」があるんですよね。

<58ページ 不安は人間を支える大事な力 より>
 風邪をひけば、ぽくらは早めに寝ますし、下痢をすれば、食事を制限します。あるいは、頭痛がひどいときはじっと静かにする。こういうことで、人間はどれだけ大きな危険を回避できているかわかりません。
 そう考えると、〈風邪の効用〉というのは、たしかにその通りだな、と思います。
 ぼくが思うに、不安ということもまた、そうなのです。不安は人間の優れた、大事な警報の働きなのです。不安という警報機が鳴らないのは、泥棒がはいっても警報機が作動しないのと同じで、非常に困ったことだと思えばいい。要するも、不安というのは、人間が本来持っている強い紡衛本能なのではないでしょうか。
 だから、不安を悪として見て、なんとか追放しよう、退治しようとする考えかたは間違っているとぽくは考えてきました。不安をたくさん抱えている人は、体に警告を発する優れた警報機をそれだけ多く持っているのです。自分は、こんなに柔軟さとバランスのとれたこころを持っているのだ、とむしろ喜ぶべきでしょう。

風邪の効用」、名著です。
ヨガを始めて最初の2年くらいでものすごく風邪をひかなくなって、当時は「ヨガすげぇ」と思っていたのだけど、そのあとはちゃんと風邪をひけるようになった。この「ちゃんと風邪をひける」というのはとても重要。それを超えると、どこがいま闘っているのかもわかるようになってくる。
一時的な「風邪をひかなくなった」という状況は、外側に力がついて内臓のSOSをブロックしていた状態なのだと思う。そこからさらに微細な感覚がついてくると、むしろ内臓のSOSをちゃんと拾おうとする。内と外が全体で身体の状況をとらえようとする。そんな変化があったように思います。

<61ページ 不安は人間を支える大事な力 より>
 「人間は自信を持たなければならない」。それは、その通りだとはくも思います。しかし、自信を持つことと不安を持つことは、対立する関係ではなく、背中あわせの関係にあるのです。不安を持たないということが、すなわち自信を持つということではありません。
 ぼくに言わせれば、不安の正体をしっかりと感じ取って、いま自分が不安を感じていることにむしろ安心しなければならない。
「不安は人間を支えていく大事な力である」。そんなふうに考えていくべきだと思うのです。
 さらに、安易に不安を取りのぞく、ということも考えないほうがいいのではないか。さっきも述べたように、阪神・淡路大震災のときに、心的外傷後ストレス障害を受けた人がたくさんいました。その人たちのこころを癒すために、いそいで勉強をしたセラピストを志す人が現地にたくさん集まった、という話もありました。
 そのとき、ぼくは非常に心配な気がしたものです。人のこころを癒すというときに、その傷ついたこころを悪と考えて、それを治すという考えに立つのは間違いだということが充分に理解できているだろうか、と思ったからです。

「癒す=いいこと」と思っている人に癒されるのか、という問いをしてみれば、答えは一目瞭然のように思います。うちこは何かしらハードなことに立ち向かっているときに「大丈夫?」と声をかけてきた人と話しているうちに、結局はその人のぼんやりとした悩み相談になっているということが多い。
最後に「すっきりした。ありがとう。なんかこっちが癒されちゃった」といわれたりするのだけど、この人にとっては「癒された=ありがとう」なのだな、と思って点が線に繋がる。

<200ページ 自分にも魔がさす瞬間が舞い降りる より>
 仏にあえば仏を殺せ、と禅家では言います。座禅をしていると、仏にあう瞬間があるらしい。しかし、それは魔だから殺せと言うのです。
 浄土真宗妙好人にはこういう言葉が知られています。もしあなたがこれでいいというものをつかんだら、そのときにはごかいさん(御開山)との縁がきれたと思いなさい。御開山、というのは、宗祖の親鸞聖人のことです。他力念仏では自分でつかむものはないと考えます。仏の光はむこうからやってきて、自分を照らしてくださるのだ、と。光をつかんだと思うのは魔なのです。それを戒めているのです。
 真言宗の宗祖、弘法大師は、ある夜明け、口の中に光の玉が飛び込んできた、それが大悟の瞬間だと言われています。それもむこうからやってきたものを、口に受けたことでしょう。自他一如とはこういうことかもしれません。このあたりに同じ日本の仏教でも宗派によってのおもむきの違いが出ているように感じられます。
 停滞した時代が長く続き、人はそれに倦(う)んでいる。その実感はぽくにもあります。ふつふつとどこからかわき上がってくる、逸脱の衝動のようなものが結実し、時代を大きく転回させていくことを望む気持ちへの不安が、ぼくのなかにもたしかにあることを感じないではいられません。

「光をつかんだと思うのは魔」、ほんとうにそうですね。まるで自分に神通力が備わったかのようなことをいう人がたまにいるのだけど、「なぜそれが自分にとってそう思えるのか」というところを紐解いていくと「周囲の状況」によるブレンドだったり、「経験や継続で読解力がついた」のほうが正しかったりする。
でもそういうふうに発言してくれると、「ああこの人はもともと特別な存在になりたいという欲望が強かったんだな」ということがわかって、そのうえで付き合える。そのあとで、分解した状況の話が「できるか」「聞きたがらないか」のほうが重要。

<264ページ 本当にたいせつなことは内に隠されている より>
歎異抄』は、親鸞の面授の弟子が親鸞亡き後の関東でわき起こっていた念仏の教えの乱れをなげき、正統な親鸞の教えを伝えるために書いたものです。
 作者は確定しきれていないのですが、唯円という人物であろうとされています。
 異義や異解をなげいて書かれた書物ですから、もともと激しい意思を秘めた本なのです。親鸞の念仏の教えをある程度は理解していないと、本当には読みこなせないのではないでしょうか。
 たとえば、念仏さえ称えれば人間は救われる、と聞いて、そうか、念仏すればいいのか、じゃあ一日に何回念仏をすればいいんですか、といったようなとらえ方をする人がいるかもしれません。
 これは、浄土教の言葉で言えば、一念か多念かの議論です。このような議論は実際に親鸞在世時にもありました。そのことについて、親鸞は『一念多念文意』という書をあらわし、また手紙(消息)で関東の門弟に答えています。
 非常に簡単にまとめると、浄土真宗の教えをしっかりと理解しているか、あるいは、真実の信心が心にさだまっていれば、一念か多念かで争うことはないだろう、ということです。
 「善人なおもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という一節が出てくると、ああ、善い人よりも悪い人が優先的に救われるんだったら、もっと悪いことをすれば、かえってたくさん仏さまに愛されるのか、という誤解も生じます。造悪無碍という異義です。
 そういうふうに誤解されやすい、きわどい真実というものがたくさんはいっているから、ある程度の思慮分別と、念仏や真宗というものについての基礎的な知識のある人に読んでもらいたいということです。『歎異抄』というのは算術でなく微分積分なのです。そのあたりのことがわからないと誤解されやすいきわどい書物なのです。

理趣経」にしても「歎異抄」にしても、欲を肯定すると異義されるものは大変だ。それを「算術でなく微分積分なのです」と表現する五木寛之さん。素敵すぎ。
「愛の水中花」(歌詞:五木寛之)が「理趣経」にも「歎異抄」にも聞こえてきそうです。

<282ページ エピローグ 不安をより強く生きる力とするために より>
不安が訪れてきても、玄関のドアを閉めて不安を追い出そうとか、なんとかこの不安を除こうとかそういうふうには考えないようにしています。
 歓迎はしませんが、来るものを拒むことはできない。むしろ、珍しいお客さんが来た、と受け入れるようにするしかないだろう、と考える。
 それというのは、不安はなにかの便りを運んでくる大事なメッセージだからです。それは、あなたの心身はもう限界だよ、これ以上無理な仕事はしないほうがいいよ、というこころと体からの忠告かもしれません。
 そういう忠告をはこんで訪れてくるのが〈不安の使者〉だとぼくは思っています。

「珍しいお客さん」は正直苦手なので、うちこは「一見さんお断り」と同じやりかたで、不安という、いつも横を流れる小川をチラ見もしないようになってきていたのではないかと思った。
状況が変われば、「一見さんお断り」なんて言っていては食っていけないビジネスがある。なので、いつでもポチャっと不安の小川に足を突っ込んで「いまはここを歩く」ということがサッとできるように、やっぱりたまにじっくり立ち止まって小川の存在を見つめてみることもあったほうがいいのだと思った。
重要なのは、「サッと」のところ。「覚悟はできてるし」という「投げやりなあきらめ」ではなく、もっとスマートに、軽やかに。


ほんとうの「神通力」って、思い通りにいかせることではなくて、この軽やかさなんじゃないかな。
より軽快に動けること、こころを軽くする技術。
ファキールではなく、ヨギだよね、と。


反省のきっかけをもらうとともに、想像も膨らむ本でした。

不安の力 (集英社文庫)
五木 寛之
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★おまけ:五木寛之さんについては過去に読んだ本の「本棚リンク集」を作っておきました。いまのあなたにグッとくる一冊を見つけてください。