うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

デーヴァーダーシーとヨーギニー

たまにヨガクラスで「ヨガの練習はもともと男性のものだったので」という話をしますが、今日の話は「男性のもの」であったというとらえかたの根拠の一面です。
以下を紹介した2013年当時はブログにコメント欄があったので、びっくりしたという書き込みがいくつかあったように記憶しています。(現在はブログを引っ越したのでコメントはありません)


いまの時代はヨガの練習やヨガ的な習慣を日常にとりいれている女性という意味で「ヨギーニ」という文字列が雑誌でも使われますが、wikipediaの「デヴァーダーシー」についての解説を読むと(出典がわからないという情報ではありますが)、デーヴァダーシーはヨーギニーとも呼ばれたという記載があります。

ja.wikipedia.org

 

 

デーヴァーダーシーについては、今年読んだ「インド・東南アジア紀行 ― エロスの神々を訪ねて」(宗谷真爾 著)に以下の記述がありました。(この本ではデヴァーダーシーと記載されています)

 デヴァーダーシーとは、日本にたとえれば巫女であり、インドでは神殿に奉仕する一種の娼婦である(日本にも、昔はそうした風習があった)。デヴァーダーシーは、神々に奉納の舞ををまい、神像を洗い香油を塗り、食物を捧げる役目をしていたが、ほかに僧侶や巡礼や、一般信徒にもその肌を許し、謝礼を以って糊口をしのいでいたのである。この制度は、インドにごく最近まであった。
 本書「天の章」でふれたプリーのジャガンナート寺院などは、実はデヴァーダーシーの名所のひとつとして有名だった。そのヴィシュヌ神殿は巨大な娼楼といっても過言ではなく、一〇〇〇人をくだらぬ聖なる売春婦がたむろしていた。踊り、歌い、詠唱することもひとつの仕事であるにちがいないが、ジャガンナート寺院の娘らは、インドじゅうの巫女仲間でもその高い教養によって有名だった。彼女らは、きわめて巧妙なテクニックで男を誘いこみ、じらし、そして夢中にさせた。
 これら神殿の娼婦には種々の別名が与えられていた。ムールリー(鳥娘)、デヴァクニャ(神々の娘)、デヴァストリー(神々の妻)などと──。そして世の親たちも、デヴァーダーシーとしておのれの娘をさしだすことは決して恥ずべきことではなく、むしろ篤信者の尊い行為と信じられ、神々の特別な恩寵に浴するものと考えられた。また国王は、農民の娘を買い、神殿への贈りものにした。それぞれの地方にひとかどの勢力を持つバラモンへの、政略的な賄賂のようなものだったのである。しかも民衆は、王がおのれの娘に白羽の矢を立ててくれることを、大変名誉なことに考えていた。冷静に考えれば、一種の人身御供にほかならなかったが、しかし信仰はそんな不条理をも正当化し、犠牲となる娘自身、神々の子たるべきおのれの命運に選ばれた者の至福をかみしめたのだった。そして、娘をさしだした両親は、娘が神々の嫁となたことを誇りとし、とくとくとして大道を闊歩した。しかもその父が、やがて神殿に詣でてデヴァーダーシーのもてなしを受けたとき、時としておのれの娘と性交渉を持つこともないわけではなかったが、決して、近親相姦などという世俗的なタブーにふれるものではなかった。なぜならばひとたび神に捧げられた女は、すでに血肉を分けた娘でもなんでもなく、全く異質の、神聖な存在に昇華してしまっていたのだから──。
 同時にまた、神殿をあずかるバラモンが、子宝に恵まれぬ世の妻たち、あるいは篤信の処女と、神殿に聖なる交りを持つことも日常茶飯のことだった。姦通、密通、不義などという世俗のカテゴリーとは別次元の、神々への祭祀にほかならなかったのであり、娘も妻も喜悦しておのれの操を司祭に捧げたのである。夫も親もこれを当然のこと──いやむしろ名誉なこととして、ともに慶祝しあったという。
(197ページ 人の章 神の火柱と、女神の深い谷/鳥娘たちの神殿 より)

ひとたび神に捧げられた女であれば、もともと自分の娘であっても性交渉がタブーじゃない。そういう役割の、女性特有の職種があった。カーマ・スートラに書かれている娼婦のTODOを読むと、専門職としてがっちり確立されていることが読み取れるので、デーヴァーダーシーについてもそういうものだったのかなと思います。

 


男性の性エネルギー(精液)の保持を重視する考えは、日本でも江戸時代に書かれた貝原益軒の養生訓に「接して漏らさず」とありますが、ハタ・ヨーガ・プラディ・ピカーの世界では「接して漏らしてもそれを自分の中に吸い上げて引き戻すまで待ってくれて、相手(ヨーギニー)も自分の愛液を保持するから双方大丈夫!」ということになっています。そのために、一度出した精液を吸い戻す練習をする。
管を陰茎に差し込んで息を吹き込んで練習すると書いてあります。なんとなく痛そうです。貝原益軒の養生訓は民間の養生法なので、こちらのほうが難易度は低そう。


──という記述も古い書物の中にあったりしますというのを説明すると、ヨガの修練はもともと男性主体のものであったことが受け止めやすいかと思うのですが、これをクラスの前に話すと長くなるし、ヤングはあまりにトンデモすぎて練習どころじゃなくなっちゃいそう。

日本は大楽思想が仏教の世界で存在していた歴史が隠されていないから(立川流)、年配の人はそんなに驚かないだろうと思うのですが、わたしと同世代の人たちでも大半びっくりします。ここへ友人と行ったときに友人がびっくりしてた…。

 

今回はデーヴァーダーシーとの共通点で説明の糸口を得たので、あらためて書いてみました。