うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ブリハッド・アーラニァカ・ウパニシャッド(紹介2:佐保田鶴治 訳「ウパニシャッド」から)

昨日の「チャーンドーギァ・ウパニシャッド」に続いて、今日はブリハッド・アーラニァカ・ウパニシャッドのなかから、グッときたものをいくつかご紹介します。このウパニシャッドの特徴をひとことで言うと「色っぽくなってます」という感じ。忘我体験の性的表現が出てくる。
このウパニシャッドでは「睡眠」についての言及が面白かったほか、脈管が登場します。最初に紹介する「生命創生に関する思弁」ではカースト制度の誕生についても書かれています。


▼昨日と同じ手描き画像ですが、登場人物相関図

<生命創生に関する思弁 より>
一・四

【一】天地(あめつち)の初めにはただ人間の形をした自我(アートマン)だけがあった。彼が身の囲りを見廻した時に、自我以外の何物も見えなかったので、彼は初めて口を開いて、「これは我(アハム)である」といった。それで、彼はアハム(我)という名をもつようになった。それ故に、現今でも他人から呼びかけられた時には、「この我は」と最初にいって、それから何なりと別の名をなのるのである。かれ自我はまた万物に先んじて一切の災悪を焼尽したので、彼はプルシァともよばれる。この事を知る人は己に先んぜんとする輩を焼尽する。


【二】かれ自我は恐怖を起こした。この故に、人が独りでいると恐怖を感ずるものである。彼は「我の外に何物も存在しないのに、我は何者を恐れるというのか?」と反省した。その刹那に彼の恐怖心は去った。実際、彼は何者を恐れる必要があっただろうか? 第二者(他者)に対してこそ恐怖ということはあり得るものなのに。


【三】しかしながら、彼は快々(おうおう)として楽しまなかった。この故に、人は孤独では楽しめないのである。彼は第二者(相手)を求めた。彼はちょうど男女が相擁した程の大きさであった。彼はこの自体を二分した。ここに夫と妻が成った。それ故に、ヤージナヴァルキァは「我自身は半片(かたわれ)にすぎぬようである」といっている。されば、この空虚は婦人によってのみ満たされ得る。彼(自我)はこの婦人を抱いた。そして、人類が発生した。


【四】その時にかの婦人は「彼は妾(わたし)を自身から生みながら、何故に抱擁したりするのでしょう。そうだ、身を隠してやりましょう」と思案して牝牛になった。すると片方(自我)は牡牛になってこれと交わり、よって牛族が生まれた。また婦人の方が牝馬になると他方は牡馬になり、一方が牝驢馬になると、他方は牡驢馬となって、これと交わり、かくして単蹄獣が生まれた。また一方が牝山羊になると他方は牡山羊となり、一方が牝羊になると他方は牡羊になって、これと交わり、かくして山羊、羊の種族が生まれた。かようにして彼はすべて配偶をなすものをば蟻の種族に至るまでこれを産み出したのである。

「あんた淋しいからってあたしをつくっといて、なんで抱いたりするのさ面倒くさっ。そうだ! 隠れちゃえ〜」ってのがいいですよねコレ。「プルーラヴァス、あんたのヤリたがりっぷりには付き合ってられないわまったく!」といってさじを投げたウルヴァシーさんを思い出します。(参考「リグ・ヴェーダ 性愛編」)



そして、同じく「生命創生に関する思弁」から。

【七】その当時はもちろん未だ万物は未分化(アヴィアクタ)であった。彼は名と色の両者を用いて、「これはかくかくの名で、これこれの色(形)である」というように万物を分化限定した。それで、現今でも万物は名、色の両者を用いて、「これはかくかくの名で、これこれの色である」というように限定せられるのである。
 かれ自我は万有の中に爪の尖までも満ちわたっているが、喩えば剃刀が鞘におさめられ、ヴィシヴァムバラがその殻の中にこもっているように、何人も彼が見えないのである。
 かれ自我は常に非全一的(部分的)である。彼は息をする時には気息(プラーナ)という名になり、語っている時には語、聴いている時には耳、思考している時には意という名になるのである。しかしこれらはすべて彼の作(はたら)きの名称にすぎない。だから、これらの一つ一つを自我として崇信する者はこれを真に知ったものではない。彼は非全一的であって、個別的な状態で存在するのであるが、それらを「自我」として崇信しなければならない。これ(自我)において万物は一体となるのである。ひとえに追求すべきは万物の自我なるものである。何故なれば、これ(自我)によって万物を知ることができるのであるから。喩えば足跡によって、失せた家畜を見出すように、上記の事を知る者は名誉と讃美とを得る。

もともとは一つだったところからの説明なので、『彼は非全一的であって、個別的な状態で存在するのであるが、それらを「自我」として崇信しなければならない。これ(自我)において万物は一体となるのである。』にいたる流れがわかりやすい。

【一四】それでも、彼は分化し尽くしてはいなかった。そこで、彼は自己以上に勝れた色(現象)たる法(ダルマ)を産み出した。法とは権力の権力である。この故に、法より勝れたものはない。法の力を藉れば、たとえ無力な人間でも有力な人間に対抗することができること、あたかも王の力によるが如くである。
 法とはまた真実のことである。それ故に、真実をいう人のことを世人は「彼は法をいう」といい、法をいう人のことを「彼は真実をいう」という。要するに、法と真実の両者は同一物なのである。

「法とは権力の権力である」とはなんと!

【一五】ここにおいて梵と権力と庶民位と奴隷位とが成った。梵は神々の世界においては火神の姿で出現し、人間界においては婆羅門となった。権力は神々の世界では権力神(インドラ等)の姿で出現し、人間界においては王族となり、庶民位は神々の世界においては庶民神(世天衆等)の姿で出現し、人間界においては庶民(ヴァイーシァ)となり、奴隷位は神々の世界においては奴隷神(プーシァン)で出現し、人間界においては奴隷(シュドラ)となった。

梵が分裂した形がカースト制度という話らしいです。



ここからは「阿闍世王とガールギァ仙との問答」からいくつかご紹介します。

<睡眠時の自我について より>
「今この男が眠っていた時には、この男の純意識からなる神我(プルシァ)は何処へ行ったのでしょうか? そして今、何処からその神我は帰って来たのでしょうか?」と王は問を発したが、ガールギァ仙は知らなかった。


 そこで阿闍世王は教えを垂れた。「今この男が眠っていた時にはこの純意識からなる神我はこれら官能の意識(知覚)を包含した意識自体を携行して、心臓内の虚空と称せられるものの裡に臥していたのです。そして、神我がこれらの諸官能を回収する時に即ちこの男は眠りに入るといわれるのです。この時には生気も回収され、語も回収され、眼も回収され、耳も回収され、意も回収されるのであります。


 しかるに人が熟睡して、何物をも感知しないという時には、神我はヒターといって心臓からプリータトに通じている七万二千の管をつたって心臓から出て、プリータトで息らって(やすらって)いるのです。あたかも、王子や大王や大婆羅門が歓楽を極めた後に臥し息らうように、この神我も臥し息らうのであります。


【注釈1】ヒター(hita)というのは心臓の内部または周囲を走っている多数の脈管のことと考えられている。その細かいことは一本の毛髪を千分した程であり、そのなかには五色の液が満ちている。人が熟眠状態にある時には霊魂がこの脈管のなかに入っている。この脈管の数はここでは七万二千本となっているが、『カータカ』(カタ・ウパニシャッド)では百一本である。

【注釈2】プリータト(puritat)の位置については三説ある。心臓の内部とする説、心臓の周囲すなわち心嚢であるとする説、全身とする説とである。

わたしはお泊りをすると「のび太かよ!」といつも言われるのですが、10秒くらいで「心臓内の虚空と称せられるものの裡」に入っているようです。「息らって(やすらって)」って、いい表現だなぁ。



次は「ヤージナヴァルキァ対話偏下 ジャナカ王に授けた教説」からいくつか。
こんなはじまりです

ヴィデーハ国ジァナカがある時朝廷に出御していられた時にヤージナヴァルキァがやって来た。
「ヤージナヴァルキァ師、貴師は何のために見えたのですか? 家畜がお望みで? それとも? 種種の精妙な定論(アンタ)をお希みでですか?」
「陛下、そのどちらをもでございます」

読みやすい。

<自我の相 より>
「自我(アートマン)とはどんなものですか? ヤージナヴァルキァ師」
「この諸感官に作(はた)らいている諸所成の神人であって、心臓内在の光明であります。この神人は常に不変でありながら、ふたつの世界の間を往来し、ある時は静思しているようにも見え、ある時は揺曳しているようにも見えます。彼は睡眠中においてこの世界即ち死の諸形相を超脱するのであります。元来、この神人は生まれ出ようとして肉身を受ける時に、いろいろな罪垢によって汚染されます。そして、死に臨んで肉身を脱出せんとする時に、これらの罪垢を遺棄して去るのであります。


【注釈】不変で充実した世界、つまり解脱の世界である。「静思している」とは心臓内に神人が没入した時の静寂の状態をいう。「揺曳(ゆらいでいる)している」というのは神人が感官の世界と夢の世界とにある状態をいっているのであろう。揺曳する(lelayate)は逍遙すると訳してもよい。

プルシャが五感の世界と夢の世界とにある状態、かぁ。

<三つの境涯 より>
 この神人には、地上界の境涯と至上界の境涯の二つの境涯がありますが、さらに第三の中間的なものとして夢の境涯があります。この中間的境涯に在る時には彼は地上界と至上界との両境涯を同時に見ております。神人(霊魂)がこの段階を辿って至上界の境涯に登ってゆくにつれて、地上界の罪苦と至上界の福祉の双方が見えるのであります。

今日たまたまヨガ仲間のチカコさんと「夢」について話したのですが、彼女はその日テレビで見た人とよくラブラブになっている夢を見るらしいです。オバマ大統領と日本語で恋をするんですって。すごいわ。

<熟眠の境涯 より>
「これを喩えて申しますと、かの大空において鷹や鷲が思うままに翔け廻った後、疲れて双翼をすぼめ、臥床へと降りてゆくように、この神人は上記の境涯からさらに進んで、何の慾得もなく、夢一つ見ないような極処(アンタ・熟眠)へと移ってゆくのであります。
 彼にはその領土として頭髪を干分した程の細いヒターという脈管があって、白、青、黄、紅の波を以て満たされております。


 さて、この際、自分を人々が殺害するように思ったり、征服するように思ったり、象が追いかけて来るように思ったり、また自らが陥�翹の中へ堕ちたように思ったりうるのは、すべて覚醒時に見た処の危険を無智のためにそこにあるかのように妄想しているのであります。
 しかし、自らが神であるかのように、あるいは王であるかのように思い、『余は宇宙なり、余は万有なり』と思いますならば、それは彼にとっての至上界であります。


 これこそ彼の、慾想を超脱し、罪苦を攘い去った、無畏の相(すがた)であります。これを喩えば、愛する婦人に抱擁せられている時には内外両界の何物をも覚えぬように、この神人は、叡智の自我に抱擁せられた結果、何物をも覚知しないのであります。これこそ彼の所願満足の相、自己を所願とする相(自足)、否な無願の相であります。これこそ苦外(無苦)の相であります。


 ここに至って、父はもはや父ではありません。母はもはや母ではありません。世界はもはや世界ではなく、神々はもはや神々ではなく、聖典はもはや聖典ではありません。また、盗人ももはや盗人ではなく堕胎女ももはや堕胎女ではなく、旃荼羅(賤民)ももはや旃荼羅ではなく、福盖(パーウルカシァ・これも賤民)ももはや福盖ではなく、沙門ももはや沙門ではなく、苦行者ももはや苦行者ではありません。要するに福徳にも罪苦にも纏われない相であります。まことに、彼(神人)はこの時心臓の一切の憂患を超脱してしまっているのであります。


【注釈】この一説(これこそ〜のくだり)は神秘的忘我の体験のあざやかな描写の一例である。単に熟睡の心理的説明だとは思えない。忘我体験の性的表現は洋の東西にわたって神秘思想家の間に愛用せられたものである。

忘我のときは、「心臓の一切の憂患を超脱してしまっている」のだそう。「精妙な定論」と「熟眠」、ともに「アンタ」とルビが振られています。「死んだように寝る」とはまさに。
「慾想」って、おもしろい表現だなぁ。



さていよいよ「ヤージナヴァルキァ対話篇下 ヤージナヴァルキァ夫妻の対話」であります。
ウパニシャッドのなかでも「目黒のさんま」並に有名な話で、過去に他の本の引用で紹介をしたこともあるのですが、今回のこちらのほうが読みやすいです。

さて、ヤージナヴァアルキァにはマーイトレーイーとカーティアヤーニーの二人の夫人があった。その中でマーイトレーイー夫人は梵学者であったが、カーティアヤーニー夫人は賢婦人というに過ぎなかった。


 ある日ヤージナヴァルキァは新しい生活に入ろうと思い立っていった。
「マーイトレーイーや、わしは現在の生活を捨てて行脚に出ようと思っているので、おまえとカーティアヤーニーとの為に財産の処分をして置きたいと思うのだが」
「旦那様、この大地が妾(わたし)の為に隈なく財宝で満たされたと致しまして、妾はそれで不死になれるのでございましょうか? それとも、駄目でございますかしら?」
「それは駄目だ。金満家達のような生活ができるというだけだよ。不死というものは金銭で買える見込みがないね」
「妾が不死になるのに役立たないようなものを頂いてもつまりません。旦那様のお悟りになったことを妾に教えて下さいませ」
「おまえはわしの恋女房だが、可愛さが今更につのってきた。さあ、おまえ、わしはここで詳しく話してあげるから、わしの話すことを注意して聴くんですぞ」


ヤージナヴァルキァは次のように説いた。
「夫が大切だから夫が愛しいのではなくて、自我(アートマン)が大切だから夫が愛しいのだよ。妻が大切だから妻が愛しいのではなくて、自我が大切だから妻が愛しいのだよ。子供が大切だから子供が愛しいのではなくて、自我が大切だから子供が愛しいのだよ。財産が大切だから財産が惜しいのではなくて、自我が大切だから財産が惜しいのだよ。家畜が大切だから家畜が可愛いのではなくて、自我が大切だから家畜が可愛いのだよ。婆羅門が大切だから婆羅門が慕わしいのではなくて、自我が大切だから婆羅門が慕わしいのだ。殺帝利(王族)が大切だから殺帝利が慕わしいのではなくて、自我が大切だから殺帝利が慕わしいのだ。世界(境遇)が大切だから懐かしいのではなくて、自我が大切だから世界が懐かしいのだ。神々が大切だから神々が尊いのではなくて、自我が大切だから神々が尊いのだ。ヴェーダ聖典が大切だからヴェーダ聖典尊いのではなくて、自我が大切だから聖典尊いのだ。生類が大切だから生類が愛らしいのではなくて、自我が大切だから生類が愛らしいのだ。万有が大切だから万有が貴いのではなくて、自我が大切だから万有が貴いのだ。
 だから、マーイトレーイー、我々が見なければならぬもの、聞かなければならぬもの、考えなければならぬもの、勉めて静思しなければならぬものといえば自我よりほかにはない。自我をだに見、聞き、考え、識った暁には、一切万有を知ってしまったのだ。

「おまえはわしの恋女房だが、可愛さが今更につのってきた」という訳が、イイ!
これがあるのとないのとじゃ、味わいが格別に違います。



最後は「附篇」から。

<最高の苦行>
 病患に罹って苦しむことは最高の苦行である。かように知る者は至高の世界を得る。
 すでに死亡した者を荒林に運ぶことは最高の苦行である。かように知る者は最高の世界を得る。
 死人を火上に安(お)くのは最高の苦行である。かように知る者は最高の世界を得る。

病と共存し、ここを最高の道場とする。


今日たまたまウパニシャッドを読んだことがあるヨギさんに「うちこさんはどのウパニシャッドがすき?」なんて聞かれたのですが、わたしは「塩水親子」と「哲学夫婦」の話が入っている「チャーンドーギァ」と「ブリハッド・アーラニァカ」が好きですとお答えしました。
そして、「佐保田先生、訳のセンスがおもしろい〜」という話をしたら「あのかたは学者さんだけど、ほら、関西系だから(笑)」と言われて納得したのでした。

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4 主要13ウパニシャッドの虫食い的抄訳
5 ヨガを日本に広めた先生が書いた本。