ムンダカ・ウパニシャッド(剃髪教徒の奥義書)という記載のとおり、内容がこのへんからものすごく「部活っぽく」なってきます。こんだけトレーニングすれば筋肉がつくんだから、それ、やれ! エッサ、ホイサ的な。
ちなみにトレーニングのメニューはおもに瞑想。筋肉はつきません。
引用紹介いきます。
道統
一・一
�却!(オーム) 梵神は神々の中の最初の神として出現し、万有の創造者、守護者たり。彼は一切学道(ヴィディアー)の根基なる梵学道(ブラハマ・ヴィディアー)をばその長子たるアタルヴァンに授けたり。
このあと、アタルヴァンがアンギヌに伝え、アンギヌがバーラドヴァージャ・サティアヴァーハに伝え、さらにそれはアンギラスへと伝えられたという先輩後輩列伝。ちょっと歴代の先輩を羅列する永平寺の儀式っぽい。
「オーム!」が「オッス!」に見えてくる。
勝学道への転向
およそ森林において苦行と信仰とを修め、心を寂静にして、乞食行を行ずる賢者は罪垢を去り、太陽の門を過ぎて、かの自性不滅なる不死の神人(プルシア)の在ます処にゆく。
真道人ありて、祭祀によりて獲たる種々の世界(果報)を観察し、無作(永遠)の世界は作為(祭祀)によりては獲られずとて深き失望に陥りなば、その事を明らかにせんが為に薪を手にして、博識にして梵学道に通じたる師を訪ぬべし。
さすれば、その賢者は己を訪える求道者がその心寂静にして、五官を制せるを見て、己がより以て真有るなる不滅の真我を知るに至れる梵学道を実の如くに説き明かさん。
入部までの道程、のような。まずOBを訪ねるべし。
梵
(二・二より抜粋)
聖音(�却)は弓、自我は矢、梵は的なりといわれる。人はこの的を心ゆるめずして射抜くべし。さらば、矢が的と合するが如く、人もこのもの(梵)と一体となるべし。
輻(や)の轂(こしき)におけるが如く脈管の湊(あつ)まる処(心臓)、その裏において彼(自我)は種々に生まれかわりつつ活躍す。「�却なり」とかく自我を汝は観想せよ。かくて、汝等が黒闇の輪廻界を渡りて、彼岸の世界に至るに幸あらんことを。
冒頭は阿字観ぽさが感じられます。自我を矢とするのがおもしろい。
後者のほうは、それまでの「五官を擬人化したような表現」から、より具体的(解剖学的)になってきています。もうちょっとしたらスシュムナーって言い出しそうな。
以降のウパニシャッドは佐保田先生の言葉をそのまま使うと「作為的」なものになってきます。わたしはこの中間の時期にあるウパニシャッドの「うまくいえそうで、いえてない。いやむしろそれがイイ」という味わいが好きです。
インド哲学の表現は、比喩に思わず膝を打つものが多すぎる。
笑点に喩えると全員が円楽状態(楽太郎さんね)じゃ面白くないのと同じように、やっぱり小遊三さんやたい平さんも、いいわけで。中期の中途半端な時期の表現には、小遊三さん的な面白みがある。
初期の二つは歌丸ヨギの領域のすごさだなぁ。ウパニシャッドは面白いなぁ。