うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

チャーンドーギァ・ウパニシャッド(紹介1:佐保田鶴治 訳「ウパニシャッド」から)

ヨガ仲間に借りた佐保田鶴治先生の「ウパニシャッド」を10日間くらい読み続けています。これが、めちゃくちゃ面白い。といってもこのテの本に慣れていないと、一般的には決してとっつきやすい本ではない。でも、できるだけこのエッセンスを伝えたい! ・・・にしても、濃い! そもそもウパニシャッドって……という人は、とりあえずWikipediaか、末尾にリンクしておくそれっぽい過去の日記を読んでみてください。


さて。佐保田先生の「ウパニシャッド」には13のウパニシャッドが収められている形なので、各ウパニシャッドごとに分けて紹介していきます。今日は「チャーンドギア・ウパニシャッド」。これまでラーマクリシュナ師の本の英訳をいくつか紹介してきましたが、彼の教えの引用によく登場するのがこの「チャーンドーギァ・ウパニシャッド」のなかにもありました。そして、うちこの大好きな「塩水親子」こと、シヴェータケートゥ・アールネーヤとその父ウッダーラカ・アールニの古典説法もこれに収められています。


はじめてウパニシャッドに触れる人に、あえてこの父と息子の対話を言い換えるとしたら、一休さん
ブッダの説法に慣れている人に、あえて先行して勝手に応答するなら「同じインド人なんで、ええ」
インド人が話好きであることを知っている人に、あえて確認のように言うなら「問答しまくってきた歴史が違うわ」
仏教に造詣の深い人なら、感覚的に永平寺カレーを5辛で」
インド人特有の、妙にとんちのきいた話に触れてしまった人に、あえてお願いする。今後その時に言ってほしいツッコミ「出たなウパニシャッド


ウパニシャッドは、面白いんです。考えまくり方がハンパじゃねえ!って感じなのです。
ハンパじゃなさすぎて、思わず膝を打つどころか、「そっか。う〜ん。すごいねぇ。そりゃそうだ。それはさておき、とりあえず……踊ってしまえ〜」ということになる。
インド味まさにここにあり、なのがウパニシャッド

以前「リグ・ヴェーダ」をしつこく紹介したことがあるのですが、この「チャーンドーギァ・ウパニシャッド」は紀元前800年〜紀元前500年なので、紀元前1200年の「リグ・ヴェーダ」に比べたら、「ちょっと最近」な感じです。この比較でいくと、5世紀のヨーガ・スートラにいたっては「ついこのあいだ」みたいな感じになってしまい、9世紀の空海さんと大差ない感じになってきて、だいぶ混乱してきます(笑)。インドの歴史を学んでいると、日本のそれとは遡る年号が圧倒的に違いすぎて、ほんと頭おかしくなってきます。


さて。引用紹介の前に。
今後続けてウパニシャッドを紹介していくにあたり、主要人物を紹介しておこうと思います。


いまはよくわからなくても、きっとこの人たちのファンになってしまいますよ。
前置きが長くなりました。そのうえに引用も長いのですが、ここまで読んでくださった方には、後半の父子の話を必ず読んでいただきたい。面白いので。
ではでは、いきます。

<高唱の崇信 より>
この一音は応諾である。すべて、人が何事かを応諾する時には「オーム」(応!)と応えるものである。そして、応諾は成功にほかならない。以上の如くに知ってこの一音を高唱として崇信ものは必ずや百般の願望を成就することができるのである。

後にも先にも、佐保田先生が「オーム」(応!)と記載しているのはここだけ。そう、なにが言いたいかというと、佐保田先生ならではの「ものすごい学者さんなのに天然でチャーミングすぎるオヤジギャグ的な訳」がさりげなく織り込まれているのですよ!
(「続ヨーガ禅道話」で炸裂している、博士のチャーム炸裂エピソードは必見)
うちこは沖先生が好きだけど、デートするなら断然佐保田先生がいいわっ!

<ラーイクヴァの教説 より>
 かくして、ラーイクヴァが王(ジャーナシルティ王)に道を説いた場所がマハーヴリシァ国のライクヴァ・パルナ村である。そして、彼が説いた事は次の如くである。


「風(ヴァーユ)は実に『とりこみや』である。火は消えた時に風に入るのである。太陽は没した時に風に入るのだる。月も沈んだ時に風に入るのである。水も乾いたときに風に入るのである。風は実にこれらのすべてをとりこんでしまうのである。
 以上は宇宙的諸存在に関したことである。


 次に己身に関することを説こう。
 生気(プラーナ)は実にとりこみやである。人間が眠る時には、語も眼も耳も意も生気に入るのである。生気は実にこれらのすべてをとりこんでしまうのである。
 宇宙的諸存在の中では風、諸感官の中では生気、この二つがとりこみやなのである」

ここから真面目に解説しますよ。ウパニシャッド全般、プラーナ信仰かっ! というくらい「プラーナ最強! エイ・エイ・オー!」な教説がたくさん出てきます。そして時代が新しくなればなるほど、その比喩のバリエーションが広がって「うまいこというもんだ」みたいな感じになっていきます。そのなかでも、この教説は初期なのになんだかイかしてるんです。佐保田先生の「実に『とりこみや』である。」なんて訳がまた素敵なのですが。

<生気の優勝 (全文)>
 かつて諸感官が互いに「僕が一番偉い」「イイヤ、僕だ」といって、高慢あらそいをしたことがある。彼等は父なる生主神の許へゆき、「尊者、僕達の中で誰が一番偉いですか?」と訊ねてみた。生主神はいわれた。「お前達の中で、身体から出てゆかれると一番身体が危く見える者が一番偉い漢なんだよ」


 まず語が身体から出ていった。彼は一年間外にいた後に戻って来ていった。「僕の不在中諸君はどうして生きてゆくことができたのか?」「ちょうど唖者が、語ることだけはできないが、気(鼻)によって呼吸し、眼によって視、耳によって聴き、意によって思考しているようなものだよ」それで、語は身体の中へ入った。


 そこで、眼が出ていった。彼も一年間外にいた後に戻って来ていった。「僕の不在中諸君はどうして生きてゆくことができたのか?」「ちょうど盲人が、視ることだけはできないが、気によって呼吸し、語によって語り、耳によって聴き、意によって思考しているようなものだよ」それで、眼は身体の中へ入った。


 そこで、耳が出ていった。彼も一年間外にいた後に戻って来ていった。「僕の不在中諸君はどうして生きてゆくことができたのか?」「ちょうど聾者が、聴くことだけはできないが、気によって呼吸し、語によって語り、眼によって視、意によって思考しているようなものだよ」それで、耳は身体の中へ入った。


 そこで、意が出ていった。彼も一年間外にいた後に戻って来ていった。「僕の不在中諸君はどうして生きてゆくことができたのか?」「ちょうど痴呆者が、智慧は働かないが、気によって呼吸し、語によって語り、眼によって視、耳によって聴いているようなものだよ」それで、耳は身体の中へ入った。


 最後に、生気が出て行こうとした。すると、いきり立った駿馬が繋鎖の杙を引き抜くように、彼は他の感官共を身体から引き抜いてしまった。そこで、感官連は生気を取り囲んでいった。
「尊者、畏れ入りました。貴下こそはわれらの中の優勝者であらせられます。どうか、身体から立ち去らないで下さい」


 それから語は「私が最も豊かなものである所以は挙げてこれを貴下に献上します」といい、次いで眼は「私が安定である所以は挙げてこれを貴下に献上します」といい、次いで意は「私が依処である所以は挙げてこれを貴下に献上します」といった。


 だから、世人は諸感官を総称して、諸語とも諸耳とも諸意ともいわないで、ただ諸生気(プラーナ)というのである。生気こそこれらの総べてであるからである。

こういう「生気論」を今後さまざまなバリエーションで紹介していくことになりますが、大昔にこんな物語が書かれていたなんて、「どんだけ内観してたんだよ」と思います。「生気論」は後期ウパニシャッドになればなるほど、表現や比喩がこなれて、こまっしゃくれてくるのですが、この初期の「生気論」はとてもかわいらしい感じがします。


さてここからいよいよ、うちこの大好きな「塩水親子」の問答です。
「ウッダーラカの教説」というもののなかで展開するもののなかからいくつかご紹介します。
ウパニシャッドには「○○の教説」といった題名のものが多く出てきますが、感覚的には「○○師によるお説法」という感じです。
この「ウッダーラカの教説」は要するにこの塩水親子のお父ちゃん(ウッダーラカ・アールニ)の説法、という意味です。

往昔(むかしむかし)シヴェータケートゥ・アールネーヤ(アールニの子)という人がいた。シヴェータケートゥは十二歳で師匠の処へ入門して、二十四歳の時にヴェーダの全編を卒業して得意満面、学問を鼻にかけ、意気揚々として帰ってきた。
以下は、彼とその父の対話(ウッダーラカの教説)

というわけです。


とにかくこのお父ちゃんの話はどれも面白いのですが、厳選して5つご紹介します。
ちなみにちょっと演歌っぽく「おまえ」と出てくるのは、息子に対する語りかけです。般若心経の「舎利子」みたいなもんです。にしても、どうにも演歌っぽい。でも内容はものすごいですよ。

<ウッダーラカの教説「身体論」>
「人が食った食物は三段に分かたれる。最も粗い成分は糞になり、中位の成分は肉になり、最も微かい成分は意になる。
 人が飲んだ水は三段に分かたれる。最も粗い成分は尿になり、中位の成分は血になり、最も微かい成分は息になる。
 人が食った熱は三段に分かたれる。最も粗い成分は骨になり、中位の成分は髄になり、最も微かい成分は語になる。
 こんな理(わけ)で、意は食物からなり、息は水からなり、語は熱から成っているのだよ、おまえ」


「父上、もっと重要なことを教えて下さい」
「よろしい」


「牛乳を攪拌すると、おまえ、その微かい成分は上層に浮き上がり、凝り固まって牛酪になるだろう。ちょうどそんなふうに、おまえ、食べた物の微かい成分は上層に浮き上がり、意となるし、飲んだ水の微かい成分は上層に浮き上がり、凝り固まって息となるし、食べた火(熱)の微かい成分は上層に浮き上がり、凝り固まって語となるのだ。こんな理で、意は食物からなり、息は水からなり、語は火からなっているのだよ、おまえ」


「父上、もっと重要なことを教えて下さい」
「よろしい」


「人間は、おまえ、十六分から成っているのだ。試みに、十五日間何も食べないでいてごらん。ただし水だけは飲んで宜しい。息は水からできているから、水さえ飲んでいれば息が絶えるという心配はないのだ」


 シヴェータケートゥは十五日間断食した。それから父の許へやって来た。


「父上、何を暗誦してみましょう?」
「梨倶(リグ)と夜柔(ヤジュル)と娑磨(サーマン)とをやってごらん」
「どうしたんでしょう、一向に思い出せません」
「それはね、おまえ、譬えば大きな焚火の跡に螢火くらいの燠(おき)が一つきり残ったとしたら、もうこの燠(おき)では大きいものを燃やすことはできないように、おまえの十六分の一分だけが残っているとしたら、それで以てヴェーダを暗誦するなんてことは到底できっこないのだよ。御飯をおあがり。それから私のいうことを聴いて弁(わき)まえて貰いたい」
 シヴェータケートゥは食事をして、それから父の許へやって来たが、今度は父の問う事は何でも答えることができた。


「どうだ、ちょうど大きな焚火の跡に螢火くらいの燠(おき)が一つだけ残っていたならば、この燠(おき)に草をつぎ加えて燃え立たせれば、それで以て再び大きな物でも燃やせるように、おまえの十六分の一分だけが残っていたから、それに食をつぎ加えて燃え立たせることによって、おまえはヴェーダでも暗誦することができたのだよ。
かような次第で、意は食物からなり、息は水からなり、語は火からなっているのだ」
かように教え諭されて、彼は父の教説を学び知ったのであった。

ものすごく要約すると、「バイタルについての説法」と思っています。意は食物からなり、息は水からなり、語は火からなっているの組合せはもうどうでもよくて、要するにそこに生命力があるか、プラーナ(生気)があるかどうかについて。
梨倶(リグ)と夜柔(ヤジュル)と娑磨(サーマン)というのは、ヴェーダのことです。リグ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダなどです。
ちなみに牛乳の攪拌の例は、過去に英文のRAMAKRISHNA師のことばを「腐ったミカンと甘いバター」という記事で紹介したことがありますが、時代を経ても「そのこころ」はそのままに、時代を経て伝わっていく色あせない魅力があります。

<ウッダーラカの教説 睡眠>
 ウッダーラカ・アールニはまたある時、息子のシヴェータケートゥにこういって教えた。「睡眠状態とは如何なるものかを私の述べる所によって明らかに知って貰いたい。人が眠っているといわれる時には、彼は実有(サット)と合一している。即ち、自己(スヴァ)に合一(アープ)したものとなってるのである。それだから、彼のことを『眠っている(スヴァピティ)』というのである。つまり、自己に合一したものとなったというのである。
 譬えば、糸で繋がれている鳥があちらこちらと飛んでみるけれども、他の処では安住の場所を得られなくて、結局は繋いでいたある処(泊り木)へたよって来るように、おまえ、この意というものもあちこちと飛んでは見るが、他の処では安住の場所を得られなくて、結局は気息(プラーナ)へたよってくるのだ。意は気息に繋がれているようなものなんだから。

ウパニシャッドには「睡眠」についての教説がほかにもたくさん出てくるのですが、この鳥の譬えがとってもあたたかくてやさしくて、好きです。

<ウッダーラカの教説 実有の帰入と生類の出生>
「譬えば蜜蜂が蜜を作るには、色々な種類の樹木の精分(ラサ)を蒐(あつ)め、これらを合して渾一な精分としてしまうもので、こうなってからは、『おれはあの樹の精分だ』『おれはこの樹の精分だ』などと精分同士で区別を立てあうことができないように、おまえ、この世の生類のすべては実有(サット)に帰入してしまうと、『おれは実有に帰入した』ということすら知らないものだよ。
 此の世にある虎も、獅子も、狼も、猪も、虫も、蚋も、虻も、蚊もその他生きとし生けるものすべては実有から出て、現在あるところのものになったのである。
 ところで、おまえ、これらの河川は、東部のものは東方に向かって流れ、西部のものは西方に向かって流れ、海から出て海に入り、ただ一つの海となるのであるが、こうなってからは、『おれはあの河だ』『おれはこの流れだ』というようなことは知らないものである。ちょうどそんなように、すべての生類は実有に到達する時、実有に到達したことすらも知らないのだよ。
 此の世にある虎も、獅子も、狼も、猪も、虫も、蚋も、虻も、蚊もその他生きとし生けるものはすべて実有から出て、現在あるところのものになったのである」


「父上、もっと重要なことを教えてください」
「よろしい」
(次の引用紹介へ続く)

これは本当によいお話。実有(サット)への理解が深まります。
そして以前うちこは仕事場での人間関係について思うことを、シュリー・オーロビンドさんについて思うことをきっかけに書いたことがあり(参考「聖師と呼ばれる人の傾聴、分解技術」)、
そのとき
「人がたくさんいるなかで、
 川はいくつも流れているけれど、隣の川も、海につながっているのよ。
という意識でそれぞれの思想に向き合えるか、これが傾聴の奥義なんじゃないかと思います。」
と書いたのですが、まさにシュリー・オーロビンドさんの言葉からもたらされた導きもおなじで、ウパニシャッドへの言及も多い。奥義の原点ここにあり、と思いました。


つづいて、先の「実有の帰入と生類の出生」に続く教えです。

<ウッダーラカの教説 生命>
「あそこにある大きな樹だね、あの樹の根に切りつけたならば、樹が生きている以上、液汁を流し出すだろう。その幹に切りつけても、樹が生きている以上やはり液汁を流し出すだろう。あの樹は生命(ジーヴァ)という自我(アートマン)によって統(す)べられているから、水を吸い上げて生き生きと愉しそうに茂っているのだよ。
 あの樹の枝の一本から生命が去ると、その枝は枯れてしまう。その次の枝から生命が去ると、その枝が枯れてしまう。さらにその次の枝から生命が去ると、その枝も枯れてしまう。樹の全体から生命が去ろうとすると、樹の全体が枯死するのである。こんな理で、おまえ、次のような結論になる。『生物は生命が去れば死ぬ。しかし、生命が死ぬのではない』とな」


「父上、もっと重要なことを教えて下さい」
「よろしい」
(次の引用紹介へ続く)

これもバイタルの教え。生命(ジーヴァ)、自我(アートマン)などの言葉によって織り成される「マンガラム」というマントラ・ソングを思い出しました。宇宙生命の平穏を祈るマントラです。


つづいて、先の「生命」に続く教えです。

<ウッダーラカの教説 榕樹の実>
「ここへ榕樹の実を一つ持っておいで」
「ハイ、ここに持って参りました」
「それを割ってごらん」
「割りました、父上」
「その中には何があるかね?」
「小さな穀粒のようなものがあります」
「その中の一粒を割ってごらん」
「割りました、父上」
「その中には何があるかね?」
「何もありません、父上」
「その中におまえの眼には見えないくらいの微さなものがあって、それからこのような巨大な榕樹も生えてくるんだよ。だから、おまえ、こういうことを信じなさい。『この微さなものこそ万生の本体(アートマン)をなすものであり、真実在(サティア)であり、自我(アートマン)であり、そしておまえ自身である』とな」


「父上、もっと重要なことを教えて下さい」
「よろしい」

佐保田先生のこの訳本のなかでアートマンは「自我」「自身」「全身」「本体」などさまざまな漢字単語に訳されて登場するのですが、ここで「真実在(サティア)=本体(アートマン)」という紐付けで語られるこのお話、この訳に感動。ものすごくわかりやすくなっていると思いませんか。


そしてこのあと、「持っておいでシリーズ」のクライマックス、有名な塩の話になるのですが、これは以前紹介したことがあるので「ヒンドゥー教―インド3000年の生き方・考え方」という過去の本の紹介(「梵我一如思想」よりの箇所)のほうでお読みください。


ウパニシャッドについてはこれからも続々紹介を続けていきますが、長いマラソンになりそうなので、過去のおもなウパニシャッド紹介記事にリンクしておきます。
ウパニシャッドから、3つの小話(「インド文明の曙」より抜粋)
インド文明の曙 ― ヴェーダとウパニシャッド 辻 直四郎 著(10章)
ウパニシャッドからヨーガへ 佐保田鶴治 著

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4 主要13ウパニシャッドの虫食い的抄訳
5 ヨガを日本に広めた先生が書いた本。